《 清少納言が描いた貴族の世界 》前編

清少納言とは宮中に仕える女房の呼び名で本名すら分かっておりません。同じく紫式部も・・・。しかし、ライバル的この二人が書き残した平安文学は一千年を経ても朽ちることなく語り継がれ、光彩を放っています。現代でしたら間違いなく、直木賞・芥川賞の筆頭に上げられる女流文学でありましょう。

まずは、清少納言の代表作『枕草子』入門偏です。

◆清少納言は『枕草子』誕生のいきさつを「跋文」(あとがき)に書いている。

「この本は、私の目に映り心に思うことを、”誰も見やしない”と思って、一人寂しい里居の間にかき集めたものだ。あいにくと、人にとって不都合な言い過ごしになってしまいそうな所々もあるので、ちゃんと隠しておいた、と思っていたところが、思いがけず世にもれ出てしまったのだ。
中宮様(定子)に内大臣伊周(これちか)様が紙を献上なさったが、”これに何を書こうかしら、帝は『史記』という漢籍を写していらっしゃるのよ”と言われるので、”なら{枕}でございましょう”と申し上げると、中宮様は”それなら、お前にあげましょう”と下さったのだった。」

京都学園大学教授 山本淳子氏は、このくだりを次のように解説されています。
「たぶん定子は清少納言の感性と表現力こそ自らの後宮(こうきゅう)の財産だと信じたのだ。清少納言の手によって定子後宮文化から新しい作品が生まれることを期待し、だからこそ紙を取らせたのだ。」
と。
中宮(定子)の絶対の信頼にこたえるため、彼女は筆を執ったのです。

上村松園筆 『清少納言-褰簾ノ図』:公益財団法人北野美術館蔵

◆清少納言ゆかりの泉涌寺を訪ねながら、『枕草子』を語っていきましょう。

東山にある泉涌寺には嘗て、清少納言の父・清原元輔の山荘があり。また、この月輪山の麓一帯は彼女が晩年を過ごした処と言い伝えられています。


泉涌寺境内図


泉涌寺大門      2012/04/27撮影

◎楊貴妃観音堂

大門を入って左手奥の堂内、中央に安置される楊貴妃観音座像(重文)があります。湛海律師によって建長7年(1255)に将来された像である。
寺伝では玄宗皇帝は亡き楊貴妃を偲んで等身坐像をかたどった聖観音菩薩像を彫らせたという。絶世の美女・楊貴妃を彷彿とさせる美しさがあります。

楊貴妃観音座像その1


楊貴妃観音座像その2

『枕草子』◇語りかける花たち◇第34or37段
ナシの花は つまらないものといわれていて、身近に植えることもなく、ちょっとした手紙を結びつけることさえないし、かわいげのない女性の顔などをナシの花のようだとたとえたりする。・・・が、唐ではこのうえなく素晴らしいとされていて、詩にも詠まれる。

それだけのことがあるのだろうと、よくよく見ると、花びらの端に美しい色艶のがほのかに見える。あの楊貴妃の、 玄宗皇帝のお使いに会って涙に濡れた顔を、「ナシの花が一枝、春の雨に濡れているようだ」と、白楽天の「長恨歌」で言うのは、なみたいていではなかろうと、特別に思うのである。

よう きひ【楊貴妃】
( 719~756 ) 中国,唐の玄宗の妃。才色すぐれ歌舞をよくし,初め玄宗の皇子の妃となったが,玄宗の寵愛 (ちようあい)をうけて第二夫人の貴妃とされた。楊氏一族もみな高位にのぼった。安禄山の乱を逃れる途上,官兵に縊死させられた。白居易の「長恨歌 (ちようごんか)」をはじめ多くの詩や小説の題材となった。

ちょうごんか【長恨歌】
中国,唐代の長編叙事詩。白居易作。806年完成。唐の玄宗皇帝と楊貴妃の恋愛を描く。日本でも古くから愛誦 (あいしよう)され,源氏物語を初め日本文学に大きな影響を与えた。

◎清少納言の歌碑:昭和49年(1974)、当時の平安博物館長・角田文衞氏の発案によって建立された。


清少納言の歌碑その1


清少納言の歌碑その2

『枕草子』◇逢坂の関◇第130or131段-藤原行成とのやりとり

翌朝、お手紙があった。蔵人所の役所用紙を何枚も重ねて「今日は名残惜しい気持ちですよ。徹夜で昔話でもしたかったのに、鶏の声にせきたてられて」などいろいろ書き綴っていらっしやる。その筆跡たるや実に見事だ。
御返事に私が「鶏の声なんておっしゃるけれど、夜明けにはあまりに遠い鶏の声、もしやあの『史記』の、孟嘗君のエピソードの鶏かしら?」そう申し上げると、即座に返信があった。

「確かに『史記』には、孟嘗君が秦を脱出した時、『夜半、彼の喰喀の一人が鶏の鳴き真似をして函谷関の門を開けさせ、食客三千人はやっとのことで脱出』とありますね。
しかし昨日の関所は函谷関ではない。あなたと私の逢坂の関、男女の関所です」。

そこで私はこう詠んだ。「夜更けに鳴いて見せたって、鶏の嘘鳴きになんか絶対ひっかかるものですか。私の恋の関所には、お固い番人がおりますのよ。」するとまた即座に、行成さんからも歌の御返事だ。「逢坂の関は今では廃止されて通行自由、別に鶏など鳴かずとも、開けて通行人を待っているとか。実は清少納言さんもそうなんじゃないですか?」

思わず、吹き出したくなるユーモアたっぷりの文ですね。

『百人一首』にも採られた有名な歌
夜をこめて鶏の虚音(そらね)ははかるともよに逢坂の関は許さじ

ふじわらの ゆきなり【藤原行成】
〔名は「こうぜい」とも〕( 972~1027 ) 平安中期の書家。伊尹 (これただ)の孫。正二位権大納言。小野道風・王羲之を学んで,和様書道を完成。のちに世尊寺流と呼ばれ和様の主流をなす。その筆蹟を権蹟 (ごんせき)という。三蹟の一。遺墨「白氏詩巻」ほか多数。

もうしょう くん【孟嘗君】
( ?~前279頃 ) 中国,戦国時代の斉の王族。姓は田,名は文。各地の有為の士を食客として数千人も養い,勢力を振るった。戦国末の四君の一人。→ 鶏鳴狗盗 (けいめいくとう)

※ここで、藤原氏系図を参考にしていただき、道隆と弟・道長の権力構造の元に置かれた人々の関係を知っておいて下さい。


藤原氏系図

『枕草子』◇「殿などのおはしまさで後」ヤマブキの花びら-口には出さなくても◇第137or138段-試練を経て強まる定子と清少納言の絆

「清少納言は道長様方と通じた筋の人なのよ」と言って、皆が集まって話している時でも、私が局から来るのを見ると、突然話をやめたりして、私をのけ者にする態度だったのだ。初めてそんな目に遭った私は、嫌になって自宅に帰ってしまった。中宮様からは何度も「出てきなさい」と仰せごとがあったが聞きいれず、長い時が過ぎた。

中宮の苦境の中、 一番傍にいるべき清少納言が自宅に戻っていた理由は「藤原道長派寝返り疑惑」でした。道長は、昨年の定子の父の死によってい最高権力者の座に就いた人、いっぽう定子の兄伊周は、この叔父との政争に敗れ、その憤懣もあって、愚かな事件を起こしてしまったのです。
中宮の周りの者たちにとって、道長は敵でした。そして清少納言は、その敵側に寝返ったと疑われ、いじめられたのです。職場が傾く時、内部で疑心暗鬼が起きるのは、今もよくあることです。


きっと直々にお叱りの言葉をお書きなのだ。私は心配でいたたまれず、封を解いた。すると、紙には何も書かれていない。山吹の花びらただ一重が包んであり、それに「言はで思ふぞ」との文字があった。ああなんて素晴らしいこと。何日もご連絡がなく溜息ばかりだった私の心は、すべて癒されて、嬉しさに満ち浴れた。

しかし、定子は清少納言を信じていました。定子が清少納言に送ったはなびらの意味はこうです。まず、山吹の花という暗号。当時山吹色はクチナシを染料にして染めたので、これには「口無し(黙って耐えているのね、清少納言)」という意味があります。そして「言はで思ふぞ」。これは「心には下ゆく水のわきかへり言はで思ふぞ言ふにまされる」という古い歌の一節。「心に秘めて口にしない恋こそ激しいのだ」という意味だが、ここでは「もの言わぬあなたこそ、真心が深いのですね」ということ。
まことしやかに疑惑を言い立でる女房のほうが、むしろ職場の結束を弱めるもと。定子は清少納言をこそ信頼していると告げたのです。それも、美しいただ一枚の花びらによって。

女性同士の絆・友情も美しいですね。


泉涌水屋形(京都府指定文化財)
泉涌寺の名の由来となった清泉を覆う屋形で、寛文8年(1668)に再建された。
この地は月輪山のふもとにあたる。平安時代に左大臣藤原緒継が神修上人に帰依して法輪寺を建立し、その後、寺は仙遊寺と改称された。泉涌寺の開山俊芿(しゅんじょう)律師が仙遊寺の地を寄進され、中国宋を手本とした伽藍造営を志した際、ここに清泉が湧き出たので寺名を泉涌寺と改めたと伝えられる。

◎もと夫であった橘則光について:清少納言の夫、剛刀一閃、強盗一味を切る◇『今昔物語集』巻第23第15話
武人の出身ではないが、きわめて豪胆で思慮深く、容姿もすぐれ、評判も良かった。ある夜、三人の賊に襲われたが、身のこなしも颯爽と鮮やかに切り捨てた。しかも、評判になるのを恐れ、翌朝これを自分の仕業と名乗り出た妙な男がいたので、功を譲ってほっとしたとある。
清少納言が描くところの野暮でお人好しな則光像とはいささか違う。二人の生活は長続きしなかったものの、則長という子もあったらしい。この話の時、則光33歳、清少納言より、一つ上らしい。どうしてこれほど違う人を好きになるのか、まさに縁は異なもの。則光は清少納言のきらきらした才気に、彼女は、虚々実々の宮中で、彼の実直さに安らぎを感じたかもしれない。

『枕草子』◇ありがたきもの◇第72or75段-人間関係の難しさ
めったにないもの、舅にほめられる婿、また、姑にほめられるお嫁さん、毛がよく抜ける銀の毛抜き。主人の悪口を言わない使用人。全然欠点のない人・・・男とか女とかいうまい、女同士でも、関係が深くて親しくしている人で、最後まで仲が良いことはめったにない。

「ありがたし(有難し)」は、あることが難しいの意味から、めったにないこと。
★化粧★
毛抜きは、当時、成人した女性は眉を抜く習慣があったので、必需品。抜いた後は眉墨でえがいた「茫々眉」。女性の身だしなみにはもう一つ、歯黒めといって、歯を黒く染めることがあった。
男性も同様で、当時は身分の低い舎人(とねり=貴人に従う雑人{ぞうにん})まで白粉(おしろい)を塗ったらしい。白粉は鉛を酢で蒸して作ったので毒性が強く、相当に健康を害した。無知だと恐ろしい結果をまねくものです。

◆処変わって、上京区にある白峯神宮(しらみねじんぐう)に移動いたしましょう。
白峯神宮の社地は、蹴鞠の宗家であった公家・飛鳥井家の屋敷の跡地である。祭神は崇徳上皇と淳仁天皇であります。

なぜ、移動したかというと、『枕草子』の中でここにある飛鳥井の名水についてふれているからです。

白峯神宮その1 2012/04/27撮影


白峯神宮その2  神殿


白峯神宮その3 飛鳥井の名水
-飛鳥井の名水そのいわれ-
『枕草子』168段
井は ほりかねの井。玉の井。走り井は逢坂なるがおかしきなり。山の井、などさしもあさきためしになりはじめけん。飛鳥井は「みもひもさむし」とほめたるこそをかしけれ。千貫の井。少将の井。桜井。后町の井。と、
九つの井戸を名水に挙げている。その筆頭とされた飛鳥井は、かって二条万里小路にあったが、いまは飛鳥井家の屋敷跡に建つ白峯神宮の境内に残る。


白峯神宮その4  蹴鞠の碑


白峯神宮その5  蹴鞠の庭
け まり[【蹴鞠】
鹿革のまりを地上に落とさぬように足でけって次々に渡す遊び。また,それに用いるまり。四隅に桜・柳・松・楓などを植えた懸 (かか)り,または鞠壺 (きくつぼ)と呼ばれる専用の庭で行われた。中国から伝来し,平安貴族の間に盛んに行われ,平安末期には飛鳥井・難波の二つの師範家もできた。まりけ。まり。しゅうきく。


平安の昔から残っているのは白峯神宮の蹴鞠だけらしいです。保存会では現在、月2回の練習を行なっているとか。日本の古典文化である、優雅な遊びを是非とも続けて欲しいものです。
清少納言も「さあ、いくわよ」とかいって遊んだのかしら?「女人が足を上げるなんて、はしたない事するもんですか、ばかね」。