《 在原業平物語 》その1
京都大原野小塩の墓で静かに眠っておられた「在原業平」さんを無理やり起こして、タカナのブログ取材に応じてもらいました。小町さんの時のような翁が見つからず、やむを得なかったのでございます。平成の世でも女性にはたいそうモテモテだとお伝えすると快諾して下さいました。
昔男:そうそう、墓に詣でて、花など手向けてもらっているからのう。恋に悩む女性にアドバイスの一つでも、して差上げられるのなら目覚めた甲斐もあろう。
タカナ:先ずは貴方の生い立ちなど、お願いします。
昔男:私の生い立ちかの。
父は阿保親王といい、桓武天皇の孫であり、第二の天皇である平城天皇の第一王子である。
母は伊都内親王(桓武天皇の第八皇女)という。父が太宰府から帰京した翌年天長2年(825)に誕生したのじゃ。つまり、兄行平とは腹違いの兄弟ということになる。
あぼ しんのう【阿保親王】
( 792~842 ) 平城天皇の皇子。810年薬子 (くすこ)の変に連座して大宰権帥に左遷された。のち許されて帰京し,子の行平・業平に在原姓を賜った。
タカナ:現代でも、絶世の美男美女としてもてはやされております。「小町」さんとの関係はどうだったのですか?
昔男:いきなり、「小町」どののことか。あれはのう、『古今和歌集』の恋歌三でたまたま並んで書かれたもので、実は彼女とは面識がないのだよ。恋仲とみんな勘違いするので困っておる。
622番歌:秋の野に笹分けし朝の袖よりもあはで来し夜ぞひちまさりける(業平)
「逢いませんよ」ともいわなかった女で、そうはいっても逢ってくれない女のもとに、詠んでやった歌。
623番歌:みるめなきわが身をうらとしられねばやかれなで海人の足たゆく来る(小町)
色好みな女の返歌。あなたとお逢いするつもりはないのに・・・、それを知らないのか・・・あなたは足がだるくなるまで通っていらっしゃるのね。
タカナ:でも『伊勢物語』{25段}◇色好む女(ひと)にじらされ通いつめ◇では艶めかしい表現になってはいますね。フフフ。
昔男:マスコミの関心はどうもあらぬ方向へ目を向けたがるものじゃ。私の本命の女性がどういう方だったのか、また、時代背景を知ってもらう必要があるのう。

紀氏と在原氏の系図
藤原氏が着々と権力を持ちつつあった時代であった。政争に巻き込まれた過去を持つ王族という微妙な生まれなのじゃ。尊い生まれのものが、憚れる罪を犯してその償いのために苦労を重ねたこともある。たとえば、私の物語でいう「東下り」であろうか。
メモ【東下り:そもそも都人にとって東国とは「文化果つる所=文化的後進地域」として、侮蔑の目で見られていた。東国風の発音も「東声(あずまごえ)」といって都の人には下品に聞こえていたという。また、当時の貴族はめったに遠国へは行かなかったそうである。(「受領=地方の長官」などになって赴任することがあった程度)。従って業平が実際に東下りをしたのかどうか。史実として、定かではない。】
憚れる罪については、私の妻(当時は一夫多妻制であったので業平にも複数の女がいた)にも関わる事ゆえ後ほど、ゆるりと話もうそう。
タカナ:「東下り」で印象に残っている所と詠まれた歌をお聞かせ下さい。
昔男:二つほどあげるとすれば、まずは、三河国・八橋という所であろう。
東下り◇東国の沢に寂しくカキツバタ◇『伊勢物語』9段-1

平安神宮・神苑のカキツバタ 2009/06/19撮影
古今集410番歌:唐衣(からころも)きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞ思ふ
唐衣を着なれるように、慣れ親しんだ妻が都にいるので、ああ、こんなところまではるばると来てしまったなあ、としみじみ旅の空を淋しく思う。
と詠んだので、そこにいた人はみな、乾飯(かれいい)の上に涙を落とし、固い乾飯が涙を含んでふやけてしまったのでした。
タカナ:奥様をを思われる気持ちがジーンと伝わってきます。それに、「折句(おりく)」の遊び・掛詞を駆使されるとは粋ですね。
おり‐く【折句】 短歌・俳句などの各句の上に物名などを1字ずつ置いたもの。「かきつばた」を「から衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬるたびをしぞおもふ」(伊勢物語)、「ゆたか」を「夕立や田をみめぐりの神ならば」(其角)とする類。
かけ‐ことば【掛詞・懸詞】
同音異義を利用して、1語に二つ以上の意味を持たせたもの。「待つ」と「松」との意にかけて、「秋の野に人まつ虫の声すなり」という類。おもに韻文に用いられる修辞法。
昔男:今ひとつは武蔵国(むさしのくに)と下総(しもつふさ)との境にある。隅田川で思いやったものだなあ。
東下り◇隅田川問えど答えぬ都鳥◇『伊勢物語』9段-3
古今集411番歌:名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと
渡し守から水鳥の名を聞いて。都鳥という名を持っているのならば、さあ、問うてみよう、都鳥よ、私の思うあの女(ひと)は、無事でいるのかどうかと。
タカナ:こちらも貰い泣きしてしまいそうです。遠国へ来て、愛する人の安否すら分からない切なさで胸が苦しくなりました。
◆現在も、隅田川にはこの歌にちなんだ「言問橋(ことといはし)」があるそうです。

ユリカモメ(都鳥) 神戸にて 2012/01/29撮影
タカナ:貴方の身分とか、家系にについてもう少し伺いたいと思います。
昔男:兄の行平は従四位左兵衛督(さひょうえのかみ)となり、私は「左近衛権少将(さこんえのごんのしょうしょう)」に任じられ、貞観7年3月(865)には右馬頭(みぎうまのかみ=右馬寮の長官)まで昇進出来たのじゃ。「在五中将」ともいう。それもこれも、清和天皇の中宮になられた高子(二条皇后)様のお陰である。
ひょうえの かみ【兵衛督】兵衛府の長官。
この‐え【近衛】(コンヱの転。皇居に近く伺候して警衛する意)近衛府・近衛師団・近衛兵の略。
メモ:二条の皇后(高子)とは
貞観18年(876)11月29日、清和天皇は譲位され、高子が産んだ貞明親王が陽成天皇となると、母の高子はまさしく国母となって中宮と呼ばれ、絶大な権勢を手に入れたのである。在原氏の昇進と高子の栄達は対をなしている。彼女をスポンサーとしての文芸活動のサロンを「二条の后の東宮の御息所(みやすどころ)」と呼ばれた。
みやすん どころ【御息所】
〔「みやすみどころ」の転〕
〔天皇の御休息所の意から〕天皇の寝所に侍する宮女。女御・更衣もいうが,公称である女御・更衣に対してそれ以下の天皇の寵愛 (ちようあい)を受けた宮女を広くさす。
平安後期以降,皇太子妃および親王妃をいう。「先坊前皇太子に―まゐりたまふこと/大鏡(時平)」

在原業平画:葛飾北斎
なんで、弓装束の絵が多いのか? 弓の名手だったそうです。
タカナ:権力はたいしたものですね。貴方もその頃、プレイボーイと騒がれたんでしょうな。きっと。
昔男:からかうのはよしてくれ、「実男(まめおとこ)」と呼ばれたが、私の義父の紀有常(きのありつね)様が零落したあげく、奥様まで尼になって出て行かれたので気の毒だと思って、尼装束はもとより寝具まで贈ったこともある。私はさりげなく心遣いをする、相手が異性でも同性でも変わらない。これを雅というのだよ。
タカナ:恐れ入りました。俗人の戯言と思われよ。
昔男:雅といえば、付け加えておこう。◇紫と緑の草木野に満ちて◇『伊勢物語』41段
昔、同胞の姉妹が二人いた。身分の低い夫を持つものと、もう一人は身分の高い夫を持つ女。身分の低い女は自分で夫の着物を洗い張ろうとして、誤って破ってしまった。どうしたらいいか分からなくて、ただ、さめざめと泣いていたのさ。私は気の毒に思いきれいな緑色の着物を見つけ贈ろうとして詠んだ。
古今集868番歌:紫の色濃き時はめもはるに野なる草木ぞわかれざりける
紫草の色が濃い時には、芽を張った野の草木が区別なくはるばると見わたされるように、妻への思いが深い時には、そのゆかりの人も分け隔てなく大切に思われるのです。
タカナ:何という繊細なお心遣いなんでしょう。「雅心」とはこういうことなんですね。教えてもらいました。