《 岐 阜 編 》後編 -秀吉の出番-
まだ、「信長」が稲葉山城を攻略していない時代のこと。永禄4年(1561)に少し後戻りしますが、木下藤吉郎(後の太閤秀吉)は8月、同じ足軽の組頭をつとめる浅野又右衛門長勝の養女お・ね(禰とだけ書いてある文書もある)と祝言を挙げている。糟糠の妻、正室、後の北の政所であります。
時に、「秀吉」25歳、お・ね14歳であったという。
この結婚を契機に「木下藤吉郎」を名乗ったらしいが、以前はどのように呼ばれ・名乗っていたか定ではない。おそらく貧農の出自を隠したいコンプレックスが「秀吉」にあったのではないかと考えます。
ともあれ、彼も苦労して「信長」に仕えた努力家であり、命がけ(金ヶ崎の戦い=元亀元年(1570)など)で主君を守った家臣の一人であった。と、多少偏見の目で見ていたタカナも反省しています。「秀吉」が”天下統一”を成し遂げるまでの道のりが如何に困難であったか、各地で取材・文献調査する内に分かりました。
「秀吉」については別の項で、あらためて述べてみましょう。
◆墨俣(すのまた) 一夜城・築城で一躍その存在をたからしめた「秀吉」。
9月20日(火)は 台風15号が接近していたにもかかわらず、雨脚が少し強くなってきた程度であったので、大垣市にある墨俣歴史資料館に向かいました。

墨俣歴史資料館付近見取り図
長良大橋を渡ると、長良川の増水を警戒して地元の消防団の方々が警戒に当たっていました。
”ご苦労様 ”こっちは歴史探訪だが彼らは命がけです。
堤防沿いを走っていくと、新犀川の小さな橋を渡る目前に「墨俣歴史資料館」が見えました。 天守閣を戴く、お城のようじゃ。
ここ、墨俣は輪中の地域として、ときに水に恵まれ、そしてときに水と戦いながら、宿場町・交通の要所として発展してきたそうです。大河・長良川が間近に流れている処へよく住み着いたものだと感心しました。
わ じゅう【輪中】
洪水から集落や耕地を守るため,周囲に堤防を巡らした低湿地域または共同村落組織。江戸時代につくられたものが多く,木曾・長良 (ながら)・揖斐 (いび)の三河川の合流地域につくられたものが有名。

墨俣歴史資料館その1 11/09/20撮影

墨俣歴史資料館その2
「信長」は尾張より井ノ口(岐阜)の稲葉山城に居城する斉藤氏を制し、京に攻め寄るにはどうしてもこの街道の要地に城(砦)を築かざるを得なかったものと思われます。
墨俣付近は木曾・長良 ・揖斐の三河川が流れ集まる低湿地であり、しかも敵を眼前にしての工事であるので、斉藤方からの妨害があり、容易に城(砦)を築くことが出来なかったのです。
はじめ命を受けて工事にかかった家臣、佐久間信盛、柴田勝家はことごとく失敗してしまい、他の家臣も、尻込みする始末。そこへ名乗りを上げたのが「秀吉」でありました。
彼の築城方法は勝家等とは全く異なる方法だったのです。「秀吉」 は近郷から土豪など千人を集め、稲田大炊助(おおいのすけ)・青山新七・蜂須賀小六・加治田隼人らを組頭と定め、櫓・塀などの用材をあらかじめ伐採しておいて、それを筏に組んで小牧・犬山方面から木曽川を通して運び込んでおいたのであります。そして、築城の人数と、斉藤方の攻撃を防ぐ人数とに手分けをし、分担協業の方式で工事を急がせたのでした。
ほんで、「秀吉」が築城開始したのは永禄9年(1566)7月5日で、一応の完成を見たのは8月21日 であり、じつに47日間を要しています。
難工事をやり遂げたので、後世の人間が「一夜城・墨俣城」と誇張して伝わってしまったのですわ。
石垣を積まず、堀と土塁だけの「城・砦」ではあはるが、合理的で頑丈な曲輪を造り上げたことに「信長」は喜びと驚異の念を抱き、「秀吉」にたいし功と賞し、墨俣城を預け、兵三千の指揮官に任命したのであります。
この後、「信長」は墨俣を橋頭堡として、美濃を攻略したのは皆さんご承知の通りですね。
天が「秀吉」の出番を差し向けたのではないでしょうか。

墨俣の江戸時代(安永7年=1778)の古絵図

「秀吉」の千生り瓢箪・出世瓢箪、彼はこれを馬印にした。
※台風が接近していることもあり、河川の氾濫が予想される地域に長居は出来ず、早々に墨俣を後にしたのでございます。(後で浜松に上陸した情報を得る)
まだ、「信長」が稲葉山城を攻略していない時代のこと。永禄4年(1561)に少し後戻りしますが、木下藤吉郎(後の太閤秀吉)は8月、同じ足軽の組頭をつとめる浅野又右衛門長勝の養女お・ね(禰とだけ書いてある文書もある)と祝言を挙げている。糟糠の妻、正室、後の北の政所であります。
時に、「秀吉」25歳、お・ね14歳であったという。
この結婚を契機に「木下藤吉郎」を名乗ったらしいが、以前はどのように呼ばれ・名乗っていたか定ではない。おそらく貧農の出自を隠したいコンプレックスが「秀吉」にあったのではないかと考えます。
ともあれ、彼も苦労して「信長」に仕えた努力家であり、命がけ(金ヶ崎の戦い=元亀元年(1570)など)で主君を守った家臣の一人であった。と、多少偏見の目で見ていたタカナも反省しています。「秀吉」が”天下統一”を成し遂げるまでの道のりが如何に困難であったか、各地で取材・文献調査する内に分かりました。
「秀吉」については別の項で、あらためて述べてみましょう。
◆墨俣(すのまた) 一夜城・築城で一躍その存在をたからしめた「秀吉」。
9月20日(火)は 台風15号が接近していたにもかかわらず、雨脚が少し強くなってきた程度であったので、大垣市にある墨俣歴史資料館に向かいました。

墨俣歴史資料館付近見取り図
長良大橋を渡ると、長良川の増水を警戒して地元の消防団の方々が警戒に当たっていました。
”ご苦労様 ”こっちは歴史探訪だが彼らは命がけです。
堤防沿いを走っていくと、新犀川の小さな橋を渡る目前に「墨俣歴史資料館」が見えました。 天守閣を戴く、お城のようじゃ。
ここ、墨俣は輪中の地域として、ときに水に恵まれ、そしてときに水と戦いながら、宿場町・交通の要所として発展してきたそうです。大河・長良川が間近に流れている処へよく住み着いたものだと感心しました。
わ じゅう【輪中】
洪水から集落や耕地を守るため,周囲に堤防を巡らした低湿地域または共同村落組織。江戸時代につくられたものが多く,木曾・長良 (ながら)・揖斐 (いび)の三河川の合流地域につくられたものが有名。

墨俣歴史資料館その1 11/09/20撮影

墨俣歴史資料館その2
「信長」は尾張より井ノ口(岐阜)の稲葉山城に居城する斉藤氏を制し、京に攻め寄るにはどうしてもこの街道の要地に城(砦)を築かざるを得なかったものと思われます。
墨俣付近は木曾・長良 ・揖斐の三河川が流れ集まる低湿地であり、しかも敵を眼前にしての工事であるので、斉藤方からの妨害があり、容易に城(砦)を築くことが出来なかったのです。
はじめ命を受けて工事にかかった家臣、佐久間信盛、柴田勝家はことごとく失敗してしまい、他の家臣も、尻込みする始末。そこへ名乗りを上げたのが「秀吉」でありました。
彼の築城方法は勝家等とは全く異なる方法だったのです。「秀吉」 は近郷から土豪など千人を集め、稲田大炊助(おおいのすけ)・青山新七・蜂須賀小六・加治田隼人らを組頭と定め、櫓・塀などの用材をあらかじめ伐採しておいて、それを筏に組んで小牧・犬山方面から木曽川を通して運び込んでおいたのであります。そして、築城の人数と、斉藤方の攻撃を防ぐ人数とに手分けをし、分担協業の方式で工事を急がせたのでした。
ほんで、「秀吉」が築城開始したのは永禄9年(1566)7月5日で、一応の完成を見たのは8月21日 であり、じつに47日間を要しています。
難工事をやり遂げたので、後世の人間が「一夜城・墨俣城」と誇張して伝わってしまったのですわ。
石垣を積まず、堀と土塁だけの「城・砦」ではあはるが、合理的で頑丈な曲輪を造り上げたことに「信長」は喜びと驚異の念を抱き、「秀吉」にたいし功と賞し、墨俣城を預け、兵三千の指揮官に任命したのであります。
この後、「信長」は墨俣を橋頭堡として、美濃を攻略したのは皆さんご承知の通りですね。
天が「秀吉」の出番を差し向けたのではないでしょうか。

墨俣の江戸時代(安永7年=1778)の古絵図

「秀吉」の千生り瓢箪・出世瓢箪、彼はこれを馬印にした。
※台風が接近していることもあり、河川の氾濫が予想される地域に長居は出来ず、早々に墨俣を後にしたのでございます。(後で浜松に上陸した情報を得る)