《 岐 阜 編 》前編
「桶狭間の戦い」から2年後、家康が信長の居城である清洲城を訪問して、信長と家康との間で会見が持たれた上で同盟が締結されました。永禄5年(1562)これが、世にいう「清洲同盟」です。
過去において「信長」の父・信秀と「家康」の父・広忠は宿敵関係で戦っていた経緯はあったものの今川氏が滅び人質の呪縛から解放された家康は破竹の勢いの信長と同盟関係を結んだ方が得策と考えたのですね。
この同盟の意義は双方にとって後々の歴史展開に大きな役割を果たすことになります。
◆2001年5月31日に岐阜城を訪れた時は、ツアーで時間的なゆとりがなく天守閣を見学できなかったので、今年、9月19日(月)改めて行って参りました。何故、そんなに岐阜にこだわるのか?と思われるでしょう。岐阜において信長が「天下布武」の宣言をした頃に、「明智光秀」や「細川藤高」、「蒲生氏郷」などが運命の糸で引き寄せられていったことに想いを馳せたのです。
「明智光秀」が歴史に登場するのは永禄10年(1568)です。流浪の生活の果て、足利義昭に見込まれて仕え「織田信長」が義昭を担ぎ出し将軍(実は信長の傀儡)擁立の際に 一役買ったからです。40歳の遅咲きの花ですな。「信長」の家臣になり、室町幕府の幕臣でもあるという特殊な立場(パイプ役を演じられたのは織田氏家臣団の中にあって、和歌や茶の湯をよくした珍しい教養人だったから)でありました。
それにしても、「光秀」の資料は少ないです、というより、謀反人の烙印を押された者の歴史資料は勝者、特に「秀吉」等によって破棄されたのではないかと考えたりします。
ここ、岐阜で「光秀」と「藤高」の二人が同じような境遇で「信長」に仕えることになろうとは夢にも思わなかったでしょうな。
でも「藤高」は「光秀」と異なる生き方をします。歌学を究めた希有な武将であり、”二つの顔=将軍義昭の家臣でありながら「信長」と水面下で通じていた”をもった世渡り上手でした。もし、世の中を泳ぐ「細川藤高」のような 巧みさが「光秀」にあったら、日本史は変わっていたでしょう。
◎「信長」から”二つの顔”をもった男への朱印状をご紹介いたしましょう。
〈織田信長朱印状〉 元亀四年(1573)二月二十六日
猶以来朱印遣候ハんかた
候者、可承候、只今内藤
かたへの折帋遣之候、
さても~如此為躰
不慮之次第ニ候、今般
被聞召直へハ、天下再興候歟、
毎事不可有御油断候、替
趣も候者、追々可承候、
京都之模様其外
具承候、令満足候、今
度友閑(松井)・島田(秀満)を以御
被 仰下ニ付て、いつれも
御請申候、然者奉公衆
内不聞分仁躰、質
物之事被下候様にと
申候、此内ニ其方之名をも
書付候、可被得其意候、
此一儀不相済候者、
可随其 上意、
(折り返し)
何以難背候間、領掌
仕候、此上者信長不届にてハ
不可有之候、此方隙
開候間、不図遂上洛、
可属存分候、其方無二之
御覚悟、連々無等閑令
入魂処相見候、荒木(村重)・
池田(勝正)其外いつれも対此
方無疎略、一味之衆へ
才覚簡要ニ候、恐々謹言、
二月廿六 信長(朱印)
(切封墨引)
-表書き-「細川兵部大□□ 信長」
古文書で分かりづらいでしょうが、大意は「京都と周辺の情報を報告してくれ満足である・・・入魂を願っておいた方がいい実力者がいれば教えてほしい」という内容です。
「藤高」が情報を提供してくれたことへの謝辞と新たな情報提供を依頼する言葉がつづられ、両者の親密な関係がうかがえる。「藤高」は同じ年、「信長」に17項目に上る義昭周辺の情勢も報告している。この時「藤高」、「信長」ともに同じく40歳です。天下取りを天秤にかけ、将軍義昭と決別することで大名として大きく飛躍していくとは、あっぱれというべきか。乱世を生きぬく知恵ですか。恐るべし。
【参考】『武将幽斎と信長』熊本日日新聞社 、奈良本達也監修『戦国武将ものしり事典』主婦と生活社など
通称、稲葉山城という岐阜城は日本の中枢位置にあるところから、城取り合戦がおこなわれ、城主が目まぐるしく変わりたましたね。
「織田信長」が城下町を形成してからは天下の様相ががらりと変わったのは皆さんご存じのとおり。
「天下は俺が取る」という「信長の一念が」が日本の歴史を回転させたのでしょう、きっと。トップの一念は時代をも変えるか。
岐阜城その1 天守閣 11/09/19撮影
岐阜城その2 織田信長座像
岐阜城その3 信長の正室「濃姫」肖像画
斎藤道三の娘、「濃姫」という通称は「美濃国出身の高貴な女性」という意味だそうな。彼女の実像は謎が多く、生没年不詳でございます。
◎「信長」は新しもの好きだった。
天正8年(1580)宣教師オルガンチーノから「地球は丸い」と教えられたとき、「理にかなう」といって直ぐ納得したそうな。地球が丸いことを理解できた最初の日本人ですわ。
彼には、そういうずば抜けた理解力が備わっていたのです。
それに加えて、異質なものへの好奇心が旺盛でありました。
黒人を家臣にしたり、ビロードの南蛮笠をかぶったりしている。
とにかく新しいもの、珍しいものが大好きでありました。
岐阜城その4 望遠鏡と地球儀 他に眼鏡
岐阜城その5 美しい刀剣
岐阜城その6 変わった兜
岐阜城その7 変わった兜
◎ 「信長」は 忍者を巧みに使って情報収集したとされる。
家臣の 滝川一益(たきがわいちます=後に信長の娘をもらっている)や岩室長門守などの甲賀出身者をかかえ、諜報活動や宣撫工作(上意を伝えて民を安んずること)を重視し、多いに忍者を利用していた。前回、述べました「桶狭間の戦い」でも最前線に忍者を中心とする偵察で「今川義元」本隊の情報を的確に捉え勝利に結びつけたとされる。
でも、伊賀忍者はなぜ虐殺してしまったのでしょうか?反発したから?何に?謎です。
岐阜城その8 忍者の道具類
岐阜城その9 忍者の道具類
岐阜城その10 忍者の道具類
◎池田輝政:永禄7年(1565)~慶長18年(1613)
美濃国池尻城、大垣城、岐阜城三河国吉田城主を経て播磨国姫路城主となり、姫路城を現在残る姿に大規模修築したことで知られる。
本能寺の変で「信長」が弑されると、父兄と共に「秀吉」に仕えたが、慶長3年(1598)、「秀吉」が没すると今度は「家康」に接近。「関ヶ原の戦い」では徳川方に与し、岐阜城攻略にも参加し功を挙げた。
この人物も世渡りにたけていたのですね。
岐阜城その11 池田輝政肖像画
岐阜城から見たパノラマその1 雄大な濃尾平野
岐阜城から見たパノラマその2
岐阜城から見たパノラマその3
岐阜城から見たパノラマその4
岐阜城から見たパノラマその5
岐阜城から見たパノラマその6
※翌日9月20日に台風15号が接近しているとは信じられない光景です。これぞ、嵐の前の静けさかな。