5月中旬の倉敷方面の旅は当初、「吉備真備」や「佐々木森綱」を調べてみたいという単純な動機であったのが、宿泊先のホテルで差し入れてもらった17日付「山陽新聞」掲載記事『天空の城、鬼ノ城』は「白村江の戦い」にかかわりがあり、古代へのロマンを掻き立てずにはおかなかった。
ミステリアスな情報はおおいなる行動のインパクトとなったのでございます。
こうして何かに突き動かされ、古墳時代、七世紀の世界、天平・奈良時代、平安時代へと移り変わる日本の歴史を吉備国から見てみようという、物語を試みた次第です。
とは云っても、目的地にそう易々と行けたわけではありません。道に迷ったり、地元の人に聞いたりとか・・・。ホンデ、年代順に効率よくとはいかず、東西南北約50km以上も車を走破しなければなりませんでした。

この試みが、今まで教えられてきた歴史観を覆るかもしれない体験になろうとは。
 
■吉備国の巨大前方後円墳

タカナはまず、
日本で四番目に大きい造山古墳(つくりやま:岡山市新庄下)という前方後円墳を見に行きました。その理由は、宮内庁の管轄下になく、誰でも自由に上れる(立ち入り出来る古墳では国内最大のものであり、全国的に見ても貴重である。)からであります。

この巨大前方後円墳=総社市にも同音の作山古墳(つくりやまこふん)があり、地元では造山古墳は「ぞうざん」、作山古墳は「さくざん」と区別して呼んでいる。

ご存じのように巨大古墳は畿内に集中していますね。まずはベスト3から、
その全ては宮内庁の管轄下にある。

①大仙陵古墳(通称、仁徳天皇陵、大阪府堺市):墳丘長約486m 後円部径約249m 高さ約35m 前方部幅約305m 高さ約33m

②誉田御廟山古墳(通称、応神天皇陵/こんだごびょうやまこふん:大阪府羽曳野市誉田):墳丘長約425m 後円部径約256m 高さ約36m 前方部幅約330m 高さ約35m

③石津ヶ丘古墳(通称、履中(りちゅう)天皇陵、いしづがおかこふん:大阪府堺市石津ケ丘):墳丘長約360m 後円部径約208m 高さ約26m 前方部幅約237m 高さ約15m

タカナが確認した造山古墳とはでかいもんやったわ。築造時期は5世紀前葉末から中葉はじめ頃と推定されている。
墳丘長約350m 後円部径約224m 高さ約32.5m 前方部幅約230m 高さ約27m


墳丘は三段築成で、くびれぶ両側に台形の造り出しを設けている。また、墳丘表面には葺き石がふかれ、格段に円筒埴輪がめぐらされていた。このほか、盾・靭(ゆき=《「ゆぎ」とも》矢を入れ、背に負った細長い箱形の道具。)・蓋(きぬがさ=古墳時代~平安時代に儀式などに用いられた飾りのついた大きな笠のこと。天蓋ともいう。身分の高い人にさしかけたもの。)・家などの形象埴輪も見つかっている。

 《平成15年3月31日 岡山市教育委員会資料》

造山古墳周辺衛星写真。環濠があったはずなのに埋まっており、宅地造成などで破壊変形している。

造山古墳周辺地図 周辺にある小さな古墳群は陪塚(ばいづか)であろうか?

「国指定史跡」にはなっているものの、平坦部は戦国時代、羽柴秀吉の毛利攻めの際、毛利方が陣地を設けるために頂上を平らにしたと考えられており、改変されたのは残念ですな 。何故か知らないが本格的な調査がなされていないとか。
なお、2009年(平成21年)より岡山大学の調査チームによって築造当時の規模の特定、周濠の有無や築造年代を推定する遺物の確認を目的として、史跡指定地外の発掘調査が3年計画で行われているそうです。

学説:大きさから古代吉備にヤマト王権と肩を並べるほどに強大な王権(吉備政権)があったとする見解もある。一方で、吉備の首長ではなく、中央の大和王権が造った古墳であり、その被葬者も倭王の一人ではないかと見ている研究者もいる。
被葬者は「誰」なのか今もって謎なのだ。

さあ、古墳へ上がっていこうとした、矢先。突然、傘が飛びそうな強風と雨がタカナの行く手を遮る。竜神の仕業か? 写真撮影もままならぬか。クソ!古墳前方部を必死で撮影しているうちにピタリと風雨がやんだ。「よくぞ、困難にめげず来られた。褒めてつかわす」ここの主が タカナを歓迎してくれたのか、有り難い。不思議と服が濡れずにすんだ。

造山古墳概念パネル:岡山市教育委員会提供 平成23年5月17日撮影

ここは古墳前方部にあたる。これは井戸ではなく石棺ですよ。 阿蘇凝灰岩製の刳抜(くりぬき)式の長持型石棺、風雨に晒されてぼろぼろです。ぞんざいな扱いですね。

神社の脇に無造作に置かれている石棺。これが「国指定史跡」か?宮内庁が関与を避けたい理由でもあったのか?この史跡の実態が明るみに出ると困る何かが

神社の階段を下り、古墳右斜面から後円墳部方向を見る。その1

古墳右斜面から後円墳部方向を見る。 その2

古墳中央部へ続く小道と植生。

左斜面から古墳を見る。その1


左斜面から古墳を見る。その2

古墳前方部から陪塚と思われる古墳が見える。その1

古墳前方部から陪塚と思われる古墳が見える。その2

古墳前方部の先端 。間近で見ると単なる小山の斜面にしか想えない。

◎吉備国各地を巡っていて気付いたことですが古墳がやたらと目につきましたね。あちらでもコチラでも。なぁーぜ?

岡山市埋蔵文化財センターの資料によれば、ここは、奈良・大阪に次いで、古墳が多く、巨大であるそうですよ。墳長が100m以上ある古墳が岡山市内だで7カ所もあるそうですな。未発見のものや中小の古墳を加えたらどれほどの数になるやら・・・。ともかく、吉備国は古墳時代においてすでに畿内に次ぐ倭国の重要な拠点であったことは間違いありませんわ。ここもミステリーゾーンなり。