2. 臼杵の石仏群というミステリーゾーン
4月2日(土)曇り時々晴れ。
臼杵の石仏との出会いは日本史の教科書あるいは何かのグラフで見たのが最初であろう。四十数年前のこと故、はっきり覚えていませんが大きな顔(切れ長の眼・眉)だけの石仏が印象に残っていたのです。
久大本線から大分駅で日豊本線の列車に乗り換えて下り臼杵駅へ。閑散とした町で出迎えてくれたのは観光宣伝・石仏のレプリカでございました。
バスの便はいまいち、タクシーで現地へ急ぐことにしましたが、車内でも「東日本大震災」の話がでまして、運転手さん曰く「臼杵湾もV字型だし、大津波がもし襲ってきたら大変なことになるのでのでは」と心配されていました。みんな海に面して生活されいる方は他人事とは思えないんですよね。
腹ごしらえをしたら、いざ、参りましょう。石仏巡りへ。
■臼杵石仏(磨崖仏)とは:リーフレットより
平安時代後期から鎌倉時代にかけて彫刻されたといわれています。60余体の磨崖仏は、昭和27年国の特別史跡、昭和37年国の重要文化財の指定を受け、長年の歳月をかけて行われた保存修理工事を平成6年3月に終えた。その時に頭部のみの姿で親しまれた古園石仏中尊の大日如来像も本来の姿(胴と一体になり)にかえり、臼杵石仏磨崖仏四群59体が、平成7年6月国宝に指定された。

臼杵石仏群周辺案内マップ
ホンデ、此処の雰囲気はどこかに似ています。・・・そう、奥州平泉の中尊寺あたりの 、何か平安時代の空気を感じます。
番号順に回ったのではありません。ともかく、個別に石仏を見ていきましょう。
◆九品の弥陀像(ホキ石仏第二群第二龕〈がん=断崖 を掘って,仏像などを安置する場所。→ 壁龕〉)。
ホキとは「岸險(がけ)」という意味の地名。
比較的小さな9体の阿弥陀如来像が刻まれている。中央の1尊だけが裳懸座に坐し、彩色も鮮やかに残っているが他の8体は欠損がひどい。平安末期頃の作。
裳懸座(もかけざ):
坐像の裳裾が台座にかかり、垂れ下がっているかたち。

◆阿弥陀三尊像(ホキ石仏第二群第一龕)
見事な彫刻技術で彫られた、臼杵石仏の中で最も優れた石仏のひとつである。中尊阿弥陀如来像はどっしりと量感豊かで毅然とした表情。平安後期頃の作。

◆如来三尊像(ホキ石仏第一群第二龕)
ホキ石仏第1群の中心的な存在である中尊の阿弥陀如来は、静まった顔で、眉、眼、髭を墨で描き、量感あふれる姿が特徴である。平安後期頃の作。


このような建物の中で石仏が千年の時を刻んでいます。雨風から防ぎ保存するのも一苦労ですよね。


あまり見かけない純国産・白いタンポポが暖かい”ハル”を言祝いで咲いていました。
◆如来三尊像(ホキ石仏第一群第一龕)
中尊に釈迦如来を刻み、童顔で親しみやすい表情である。螺髪=(〈らはつ、らほつ〉は、仏像の丸まった髪の毛の名称。)の刻み方などに簡略した跡が見られる。
平安末期頃の作。

◆如来三尊像(ホキ石仏第一群第三龕)
中心の三尊は、中尊に金剛界大日如来を配し、右に釈迦如来、左に阿弥陀如来が並んでいる。
三尊とも膝前(しつぜん=膝に懸けている布)が長く広いのが特徴で、如来像の台座には、願文や経巻を納めたであろう円や四角の孔(あな)がある。平安末期頃の作。

◆地蔵十王像(ホキ石仏第一群第四龕)、前述の像の右隣にある。
役割は閻魔に似ています。
中尊に地蔵菩薩をすえ、冥府(めいふ=死後の世界。冥土。また,地獄。)にあって亡者(もうしゃ=死んだ人、成仏しそこなった人)の罪を裁き救済する十王像を左右に5体ずつ配している。錫杖
(しゃくじょう=僧侶・修験者の持つ杖)を持たず、右足を坐し左足を立てている地蔵菩薩は、古い様式で珍しい。鎌倉期の作。
※この地蔵像の形相に注目していただきたい。これは、中国の影響を色濃く受けている服装だとは思いませんか。どう見ても日本人の当時の風俗ではありません。

◆山王山石仏
3体の石仏で、中尊には大きな如来座像をすえ、その左右には脇尊としての如来座像を配す珍しい形式をとっている。邪気のない童顔が心をなごませてくれる。「隠れ地蔵」とも呼ばれ、故安井曽太郎画伯が絶賛した像である。平安後期頃の作。

◆古園石仏、臼杵石仏群の象徴であり、一番有名な石仏です。
中尊の大日如来像は、切れ長の目に引きしまった口元がきわめて端正で気品あふれる表情を作り、各方面から限りない絶賛を受けている。平安後期頃の作。
長い間、落ちた仏頭が仏体下の台座の上に安置されていましたが、ようやく平成6年3月修復完了し本来の姿になったわけであります。

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修復前の古園石仏、これが昔見た光景であります。

臼杵石仏群の中庭の光景、春爛漫。気持ちがよかね。

右前方に見えるのが、満月寺(まんがつじ)
◆仁王像
満月寺(まんがつじ)境内にある。膝から下が土に埋もれています。風化が激しく、顔の一部が欠損したり、腕がちぎれています。発掘調査しなければ、忘れ去られていたことでしょう。鎌倉末期頃の作といわれいる。

◆特別史跡・観音石仏について:案内板から
満月寺境内に残るこれらの石仏彫刻は二体の座像が並ぶ像の方を真名野長者夫妻の像と伝えられています。真名野長者夫妻とは、ここ深田に残る伝説に出てくる炭焼き小五郎とその妻、玉津姫をいいます。また
一体のみの座像は蓮城法師と伝えられ、臼杵磨崖仏群を作り上げたとされる人物です。
どちらもあくまで伝説ですが臼杵磨崖仏の造立の謎に関わるとされています。
なお、「観音石仏」の名称は小字の「観音」を冠したものです。
おかしな話です。60体もの磨崖仏を一人で造れるわけがありませんよね。膨大な延べ人数を要してたでありましょう。財力と権力を持った勢力がここを選んで石仏を造らせた意図とは・・・?

特別史跡・観音石仏を下から撮影。

左の 座像が蓮城法師、右の座像が 真名野長者夫妻の像といわれている。
制作年代は 平安後期か鎌倉期、はては室町期かと様々な説があり、現代人に謎解きのテーマを提供してくれているようです。
■いかがでしたか。これだけの規模の磨崖仏群を誰が何のために造ったのか、文献も乏しく未だに分かっていません。まさにタイムカプセルから出てきたミステリーゾーンではないでしょうか。