2.丸亀城の威容とビリヤードのような歴史の変転 -前編-   

                                     
・前置きになりますが、四国から帰って展示資料や文献類を調べていくうち、戦慄を覚えたのです。何という歴史の連鎖かと。
「ビリヤードのような歴史の変転」というタイトルは、大げさな印象を覚えられる方もいらっしゃるかも知れません。
「中国攻め」→「本能寺の変」→「秀吉の天下」→「関ヶ原の合戦」→「家康の天下」→「長曽我部氏の滅亡」→「山内家の入封」→「幕末の動乱」→「龍馬登場」→「明治維新」
とフローチャート風に描けば、タカナの意図するところが少し理解していただけるのでは。ビリヤードの如く弾かれる武将達の「運命」と「四国や日本の歴史」に後代にまで与えた衝撃波を探ってみました。

■それでは舞台を「丸亀」に戻しましょう。

13kmほどの橋の長さも時速100kmで車を走らせたら、「あっ」というまです。
「母さんあれが斜張橋ですyo。」、なんて言って説明してる間に四国に渡ってました。

「丸亀城」はどこじゃ、ナビの指示通り坂出ICから一般道へ、見えてきました。新緑に包まれた「丸亀城と天守閣」が、「優美で、風格が・・・何ともいえない威容じゃ」、日本百名城に選ばれるだけのことはありますz。

庭園から「丸亀城」を見上げる   2010/5/11撮影
丸亀城城郭内に車を止め、早速、丸亀市立資料館を訪れました。ここには変わった展示品がたくさんありましたne。「農器具や大きな赤い団扇」、「木板城郭図」、「甲冑」、「肖像画」、「咸臨丸の模型」等々。

先ずは画像をご覧いただきながら、「丸亀城の沿革」を説明してまいりましょう。

天保3年作成 木製丸亀城郭図   

丸亀市立資料館収蔵の甲冑その1(四つ目結の京極氏家紋がある)

丸亀市立資料館収蔵の甲冑その2

丸亀城郭古図
  
咸臨丸の模型  山本泰久氏寄贈
※「咸臨丸の模型が何故この資料館に収蔵されているのか?」と思われるでしょう。
 その答えは 幕末の万延元年(1860年)、日米修好通商条約の批准書を交換すべく太平洋を横断した咸臨丸の水夫は、50名中35名を瀬戸内海の塩飽(しわく)の島民が占めたからです。

泰平丸(藩主の御召船)模型 村岡文子氏寄贈

現、「丸亀城」の土台を築き明治まで七代続いた「京極氏」とはどんな一族だったんでしょうか。
そして、彼らより早く、「丸亀」を一時的に支配した勢力もありましたので。下記にしるしておきます。

①慶長2年(1597)豊臣政権の時代、生駒親正が讃岐17万石を与えられ高松城を本城とし、亀山に支城を築く。慶長7年(1602)6年の歳月を要し、ほぼ現在の城郭が完成。

②寛永17年(1640)生駒氏、お家騒動(生駒騒動)のため出羽国矢島(現・秋田県由利本荘市)に転封となる。

③寛永18年(1641)山崎家治が肥後国富岡(現・熊本県天草郡苓北町)より5万石で入封。丸亀藩が立藩。

④万治元年(1658)山崎氏、3代で無嗣断絶し改易となる。代わって播磨国龍野(現・兵庫県たつの市)より京極高和が6万石で入封。以後、明治時代まで「京極氏」の居城となる。

※丁度、京都新聞に連載中の小説『三人の二代目』堺屋太一作、287回目で、「本能寺の変」直後、明智光秀が急遽、自分に協力を要請した武将で、かつて近江半国の守護であった京極高吉の子高次の記事が載っています。偶然というかタカナが説明するまでもなく、「京極氏」の出自がおぼろげながら分かりますne。

京極刑部少輔高和の肖像画 丸亀市立資料館収蔵

・讃岐国丸亀藩初代藩主となった「京極高和( たかかず)」の人物像とは

元和5年(1619)3月10日生まれ。寛永8年(1631)に叙任する。寛永14年(1637)に松江26万石の藩主であった伯父の忠高が嫡子を残さずに亡くなった為、その末期養子となり、播磨龍野6万石へと減封される。万治元年(1658)に讃岐丸亀5万石と播磨揖保郡網干1万石の計6万石に移封となる。

万治3年(1660)には讃岐にあり広く信仰されていた金毘羅大権現を江戸三田の藩邸に勧請し、参拝を願う江戸の町民に応え、毎月10日には邸内を開いて参拝させた(現在の虎ノ門金刀比羅宮)。また、この年には丸亀城の天守閣を完成させる。
寛文2年(1662)に京都において44歳で亡くなり、徳源院恃英遺達大居士との法名を贈られる。墓所は滋賀県坂田郡山東町の徳源院。後を次男・高豊が継いだ。

・以下七代続きました。

京極高豊(きょうごくたかとよ)明暦元~元禄7(1655~1694)

京極高或(きょうごくたかもち)元禄5~享保9(1692~1724)

京極高矩(きょうごくたかのり)享保3~宝暦13(1718~1763)

京極高中(きょうごくたかなか)宝暦4~文化8)(1754~1811)

京極高朗(きょうごくたかあきら)寛政10~明治7(1798~1874)

京極朗徹(きょうごくあきゆき)文政11~明治15(1828~1882)
幕末の丸亀藩には土肥大作、田岡凌雲ら勤皇の士がいて、藩論は早くから勤皇に統一された。慶応4年(1868)多度津藩兵とともに朝敵となった隣藩高松藩を攻撃した。
版籍奉還により丸亀藩知事となり、廃藩置県を経て明治15年5月11日に53歳で死去した。

晩年の京極朗徹の写真 丸亀市立資料館収蔵
※七代目の幕末に官軍に与したことから、「丸亀城」が潰されずにすんだのでございます。ビリヤードの玉が良いところへゴールしたお陰でタカナ達は「丸亀城」の威容を眺めることが出来るのです。どこへ弾かれるかでね・・・皆さん。