1.「丸亀」までの道程(みちのり)は長かった。
平成22年5月11日、朝から小雨交じりの山陽自動車道を新快速電車並みのスピードで走っておりました。「オオアブナー」。
目指すは「丸亀」。龍馬が脱藩し、長州へ渡った由縁の地を最初に訪ねたかったからです。当然、お城も興味がありましたがne。
「丸亀」に着くまでに天候が良くなるよう、念じながら突っ走って行き、姫路付近にさしかかった頃、なんと、空が明るくなっていきました。タカナの祈りが通じたのでしょうか。
山陽道から「瀬戸大橋」にかけて、そして高知、吉野川、鳴門に至るルートはタカナの思い出の残像がレイヤーされているのですyo。
山陽道ですら、神戸、明石、作用町・播磨天文台、姫路、赤穂、岡山、倉敷等と旅のアルバムは膨大なペ-ジ数になるでしょう。
先ずはその中からピックアップして姫路城と瀬戸大橋を取り上げてみます。
・「国宝姫路城=別名、白鷺城(はくろじょう)」、この城を知らない人は日本人なら殆どいないのではと思いますが、あえてタカナなりの説明をさせて下さい。
この城が国宝姫路城と云われるほどの威容になったのは池田輝政が関ヶ原の戦いの戦功により播磨52万石(播磨一国支配)で入城し、天下普請のおり1601年(慶長6年)から8年の歳月をかけて大改修し現在のような広大な城郭を築いたのです。

国宝姫路城その1 1991/10/23撮影

国宝姫路城その2
1609年といえば丹波亀山城(5層の天守閣を誇る)築城の1年前です。今年は亀岡で築城400年にあたる為、様々な催しがあります。この頃は、日本の主立った城の建設ラッシュだったんでしょうね、おそらく。
いま、京都新聞に連載中の小説『三人の二代目』堺屋太一作、で備前・播磨は主要な舞台として描かれていますので多くの方がご存じでしょう。「秀吉」の中国攻めの時、拠点となった城が「姫路城」ですね。この作戦の首謀者は、云うまでもなく「織田信長」でございましたが、この「中国攻め」という野望は、「信長本人」は元より多くの武将達の「運命」を左右する物語へ発展していくことになります。彼らの「運命」については後ほど語ることに致しましょう。
タカナ夫妻は数度、姫路城へ赴きましたが、写真として残っているのは平成3年(1991)10月23日、菊花展が城内公園で開催されたおり撮ったものだけです。天守閣からは姫路港や工場地帯、市内の目抜き通り、背面の山々まで連なる市街地などぐるりと見渡せましたが、「姫路市」の皆様へは申し訳ない。タカナの個人的感想ですが「日本三大名城」のうち一番、市街地に溶け込むような美しさをおぼえたのは「熊本城」でございました。
では-山陽・四国巡行-の略地図をご覧になって下さい。

山陽・四国巡行略図
・「丸亀」へ行くには山陽道から「瀬戸大橋」を渡らねばなりません。
「瀬戸大橋」は1978年の着工から9年6ヶ月を経て1988年4月10日供用開始されました。橋梁上部構造部分は、上部に4車線の瀬戸中央自動車道が走り、下部にJR本四備讃線(瀬戸大橋線)が通る2階建ての構造であり、用途が2通りあることから「鉄道道路併用橋」と呼ばれている。「鉄道道路併用橋」としては世界最長で総延長13.1kmの巨大なものです。

与島から見た、「瀬戸大橋」その1 1988/4/23撮影

与島から見た、「瀬戸大橋」その2
今は亡き父と今でも元気な母を伴いバス旅行をしたおり、供用開始から2週間後、昭和63年(1988)、4月23日に初めてこの橋を渡りました。タカナ一家の写真は与島で撮影した貴重なものです。あれから、22年の歳月か・・・みんな若かったんだー。
もし、父が健在なら、自分の車で一緒にこの橋を渡りたかった・・・「親孝行したいときに親は亡し」か。現実は厳しいですna。

丸亀から見た「瀬戸大橋」 2010/5/11撮影
「瀬戸大橋」を渡りきって「丸亀」からこの橋を改めて眺め、感傷に浸るタカナではありました。
次回は「丸亀城」を中心にお話し致しましょう。
平成22年5月11日、朝から小雨交じりの山陽自動車道を新快速電車並みのスピードで走っておりました。「オオアブナー」。
目指すは「丸亀」。龍馬が脱藩し、長州へ渡った由縁の地を最初に訪ねたかったからです。当然、お城も興味がありましたがne。
「丸亀」に着くまでに天候が良くなるよう、念じながら突っ走って行き、姫路付近にさしかかった頃、なんと、空が明るくなっていきました。タカナの祈りが通じたのでしょうか。
山陽道から「瀬戸大橋」にかけて、そして高知、吉野川、鳴門に至るルートはタカナの思い出の残像がレイヤーされているのですyo。
山陽道ですら、神戸、明石、作用町・播磨天文台、姫路、赤穂、岡山、倉敷等と旅のアルバムは膨大なペ-ジ数になるでしょう。
先ずはその中からピックアップして姫路城と瀬戸大橋を取り上げてみます。
・「国宝姫路城=別名、白鷺城(はくろじょう)」、この城を知らない人は日本人なら殆どいないのではと思いますが、あえてタカナなりの説明をさせて下さい。
この城が国宝姫路城と云われるほどの威容になったのは池田輝政が関ヶ原の戦いの戦功により播磨52万石(播磨一国支配)で入城し、天下普請のおり1601年(慶長6年)から8年の歳月をかけて大改修し現在のような広大な城郭を築いたのです。

国宝姫路城その1 1991/10/23撮影

国宝姫路城その2
1609年といえば丹波亀山城(5層の天守閣を誇る)築城の1年前です。今年は亀岡で築城400年にあたる為、様々な催しがあります。この頃は、日本の主立った城の建設ラッシュだったんでしょうね、おそらく。
いま、京都新聞に連載中の小説『三人の二代目』堺屋太一作、で備前・播磨は主要な舞台として描かれていますので多くの方がご存じでしょう。「秀吉」の中国攻めの時、拠点となった城が「姫路城」ですね。この作戦の首謀者は、云うまでもなく「織田信長」でございましたが、この「中国攻め」という野望は、「信長本人」は元より多くの武将達の「運命」を左右する物語へ発展していくことになります。彼らの「運命」については後ほど語ることに致しましょう。
タカナ夫妻は数度、姫路城へ赴きましたが、写真として残っているのは平成3年(1991)10月23日、菊花展が城内公園で開催されたおり撮ったものだけです。天守閣からは姫路港や工場地帯、市内の目抜き通り、背面の山々まで連なる市街地などぐるりと見渡せましたが、「姫路市」の皆様へは申し訳ない。タカナの個人的感想ですが「日本三大名城」のうち一番、市街地に溶け込むような美しさをおぼえたのは「熊本城」でございました。
では-山陽・四国巡行-の略地図をご覧になって下さい。

山陽・四国巡行略図
・「丸亀」へ行くには山陽道から「瀬戸大橋」を渡らねばなりません。
「瀬戸大橋」は1978年の着工から9年6ヶ月を経て1988年4月10日供用開始されました。橋梁上部構造部分は、上部に4車線の瀬戸中央自動車道が走り、下部にJR本四備讃線(瀬戸大橋線)が通る2階建ての構造であり、用途が2通りあることから「鉄道道路併用橋」と呼ばれている。「鉄道道路併用橋」としては世界最長で総延長13.1kmの巨大なものです。

与島から見た、「瀬戸大橋」その1 1988/4/23撮影

与島から見た、「瀬戸大橋」その2
今は亡き父と今でも元気な母を伴いバス旅行をしたおり、供用開始から2週間後、昭和63年(1988)、4月23日に初めてこの橋を渡りました。タカナ一家の写真は与島で撮影した貴重なものです。あれから、22年の歳月か・・・みんな若かったんだー。
もし、父が健在なら、自分の車で一緒にこの橋を渡りたかった・・・「親孝行したいときに親は亡し」か。現実は厳しいですna。

丸亀から見た「瀬戸大橋」 2010/5/11撮影
「瀬戸大橋」を渡りきって「丸亀」からこの橋を改めて眺め、感傷に浸るタカナではありました。
次回は「丸亀城」を中心にお話し致しましょう。