《 死に場所を求めた男と生きる道を選んだ男 》
世は、坂本龍馬ブームに沸き返っていますね。タカナもそんな龍馬ファンの一人ではありますが、彼ら維新の英雄と全く対局の生き方をした武闘集団「新撰組」の存在も決して忘れてはいけない幕末のヒーローのひとつだと思っています。
2010年2月9日から7回にわたって京都新聞に連載された記事【あの日あの時】を読んでいてスポットライトが当たらない人達のことも、触れずにはおれなくなりました。
「新撰組血風録」 ビデオカバー写真
それは、昭和40年(1965)から始まったTV時代劇「新撰組血風録=司馬遼太郎の『新撰組血風録』は昭和62年に発表された。従来は脇役だった土方 歳三にスポットをあて、隊士たちとともに悩み苦しむ等身大の人間として描いた。《凶暴な武闘集団・新撰組》という従来のイメージを一新する話題作となった」で土方 歳三役を演じ一躍有名になった俳優 栗塚 旭さんの回想録でした。
先ず土方 歳三と坂本 龍馬の生没年を比較してみましょう。二人とも天保6年という同じ年代に東西に分かれて生まれ、全く別の道を歩んだことは皆さんご承知の通りであります。
・土方 歳三(ひじかた としぞう、天保6年(1835)5月5日 - 明治2年(1869)5月11日(享年35〈満34歳没〉)
・坂本 龍馬(さかもと りょうま、天保6年(1835)11月15日 - 慶応3年(1867)11月15日(満32歳没)
※しかも、この二人には共通点が幾つかあります。
・その一
姉にきたえられ頭が上がらなかった。
【土方 歳三の姉、佐藤のぶ=1831-1877】
幼くして母を失った歳三を、まるで母親のように面倒をみたのが4才年上の姉の、のぶだった。歳三はのぶの言うことなら何でも聞く”姉さん子”で、成人して新撰組副長となってからも、のぶには頭が上がらなかったという。
のぶは弘化元年(1844)、日野宿名主佐藤彦五郎のもとに嫁ぐが、歳三は彦五郎邸にしょっちゅう入り浸っていた。のぶは居候を決め込む歳三にてきぱきと命じて手伝いをさせていたとう。彦五郎邸には天然理心流の道場があり、歳三が剣と出会ったのも、近藤や沖田と知り合ったのも、ここでのことと思われるから、のぶは歳三の人生のキーマンであった。
【坂本 龍馬の姉、坂本乙女=1832-1879】
坂本八平・幸の間に3女として産まれた。坂本龍馬の父、坂本八平は土佐国高知城下本丁筋町人の郷士だったようである。
元々坂本家は豪商であった才谷家の分家として、その場所で過ごしていた。薙刀がうまかったといわれる。また、剣術・馬術・弓術・水泳などの武芸や、琴・三味線・舞踊・謡曲・経書・和歌などの文芸にも長けた、文武両道の人物だったという。また、身長5尺8寸(約174cm)・体重30貫(約112kg)という当時としてはもちろん、現代的に見ても大変に大柄な女性であった。この坂本乙女は「仁王様」と呼ばれた事もあったようである。
1846年に母親・幸が亡くなった後は龍馬の母親代わりを務め、書道・和歌・剣術などを龍馬に教え、又、彼が当時患っていた夜尿症を治した事もあった。1856年、典医岡上樹庵と結婚して一男一女(赦太郎・菊栄)をもうけるが、家風の相違や夫の暴力・浮気などが原因で1867年に離婚し、実家に戻る。龍馬のよき理解者として、相談に乗ったり励ましたりしたという。
坂本乙女は、当時女性が当たり前の様にやっていた裁縫や料理を好むと言うよりは、前述のように男性が行っていた学問や武芸、絵等に興味を持ち修行していたといわれるから、また、そう考えると好奇心旺盛で女ながら何でも挑戦してみたというところは坂本龍馬がそっくり受け継いだといえるかも知れませんne。
・その二
二人とも身分はさておき、裕福な家庭に生まれ、剣術に励むことができる下地が出来ていた。
・その三
歳三は松坂屋に奉公に出されたり、土方家の家伝薬「石田散薬」の行商をさせられたりした経験から算勘(計算・経済的感覚)のおおよそと使用人を束ねるすべを身につけたらしい。また京都守護職から新撰組に届いた公文書を送り付けて、それを書写して保存しておくように指示している。歳三の几帳面さは新撰組の恐るべき掟「局中法度」にあらわれているのではないだろうか。
一方龍馬は豪商であった才谷家の商売のDNAを勝海舟との出会い後、開花させ「亀山社中」という今でいう商社を起した。
・その四
二人とも当時としては大柄な男性で、女性に大層もてたようである。
歳三は奉公先の女性を妊娠させた事件やら、芸子たちから「ファンレターを沢山もらった」と吹聴しまくったというエピソードが残っているようである。『両雄士伝補遺』では、「身丈五尺五寸、眉目清秀ニシテ頗ル美男子タリ」と評しており、言い寄られたとしても不思議ではない。
一方、龍馬は美男子という風貌ではないが、生来の明るさと、人情味あふれ、気宇壮大な感性から人々を引きつけてやまない男で、土佐での幼なじみ加尾、お田鶴(おたず)さま=土佐24万石の家老福岡宮内(ふくおかくない)の御妹君、婚約者となった千葉道場の佐那、妻の楢崎お龍などなど『龍馬がゆく』を読まれた方は、女性にモテモテだった事がお分かりになるでしょう。
うらやましいなあ。・・・タカナも・・・アホか!
◎ 新撰組の名を世間に轟かせた「池田屋事件=元治元年(1864)6月5日」のタカナの評価
池田屋騒動の受難者には有能な志士《長州間者の大元締、古高俊太郎・松下村塾の傑物、吉田稔麿・肥後勤王党の総帥、宮部鼎蔵など》も含まれいたが、彼らの計画には、勤王佐幕という前に京都に住む人々にとって、誠に迷惑至極で無謀な内容も含まれていた。それは、京都御所に火を放ち、京都守護職の松平容保以下佐幕派の大名を殺害して、天皇を長州へ連れ去ろうというものであった。
この計画が本当に実行されたならば、火の海になるのは果たして御所だけですんだであろうか?
実際、「元治元年7月19日(1864年8月20日)に起きた禁門の変=蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)等ともいう」では戦闘の後、落ち延びる長州勢は長州藩屋敷に火を放ち逃走、会津勢も長州藩士の隠れているとされた中立売御門付近の家屋を攻撃した。
この二箇所から上がった火で京都市街は「どんどん焼け」と呼ばれる大火に見舞われ、北は一条通から南は七条の東本願寺に至る広い範囲の街区や社寺が焼失した。
尊皇攘夷、攘夷と叫ぶ者たちの中には、暗殺集団と化した愚かな連中も多数存在した。従って、京都の治安を守る集団の一つとして、「新撰組」が果たした役割は大きいといわねばならない。国を思う次元の差はあったにせよ、それぞれの生き方の違いであって憂国の念に変わりはなかろうとタカナは考えましたne。
さて、本題に移りましょうか。
◎ 《 死に場所を求めた男と生きる道を選んだ男 》という命題は土方 歳三と坂本 龍馬のことではなく、新撰組創設以来の隊士にして、剣の腕前は隊士中の一、二を争い、「四天王」のひとりに数えられた「永倉新八載之(ながくらしんぱちのりゆき)」との話であります。
【鳥羽伏見の敗戦と土方 歳三の北寄行、そして隊士の分裂】
「戊辰戦争 MAP」 ウィキペディア提供
函館山を背景にして
函館市の美しい蝦夷ツツジの坂道 2004/05/22 撮影
函館市の美しいライラックの坂道
◎ 永倉新八は後に藩医杉村介庵(松柏)の婿養子となり。北海道に渡って明治六年or八年には家督を継いで杉村治備(のちに義衛)と名乗った。
彼は北海道や東京で剣術師範として活躍するかたわら新撰組の語り部として様々な動きをした。明治九年(1876)には近藤の処刑地近くに元御殿医松本良順の協力を得て「近藤勇昌宣・土方 歳三義豊之墓」を建てたが、その側面には100余名の新撰組隊士の名が刻まれている。
「ともに戦った同士」を忘れることなく顕彰しようという強い意志と人間性が表れていますne。
この時期に顕彰碑を建てるに当たって、その文言を時の東京府知事は許可しなかったらしいが、それでも建てた永倉新八には「権力者への反骨精神」があったに違いありません。
永倉新八 晩年の写真
気骨の人、新八が天寿を全うし、大正4年(1915)77才で亡くなった事は驚異的なことであります。
彼が残した文献『浪士文久報国記事』『新撰組顛末記』によって新撰組についてリアルで正確な情報が今に伝わり、「新撰組」が小説や映画になるのも彼が生きる道を選んだお陰ですne。
※人の運命と役割を考えると益々不可思議に思えてなりません。
【参考】菊池明著『土方 歳三の35年』新人物往来社、『新選組隊士伝-蒼き群狼、その生と死の断章』学習研究社、ウィキペディアなど
背景は函館山
慶応4年1月3日、鳥羽口で薩摩軍と旧幕府軍が衝突し、砲声が轟いた。それは、新時代の幕開けを告げる祝砲でもあり、土方 歳三という、一人の男の強烈な意志に導かれ、幕末京都を席巻した最強軍団の栄光が終焉したことを告げる悲報でもあった。
新撰組はじめ旧幕府軍は、あっけなく、徹底的に打ちのめされた。「京都新撰組」は、ここに死んだのだ。江戸に向かう富士山丸の船中で、歳三の胸に去来した思いは分からない。ただ、打ちのめされて敗走する無念さが、歳三のプライドに固く刻み込まれたことは間違いない。孤立無援の北寄行の第一歩が、今、歩み出された。
慶応4年1月31日、歳三は江戸へ戻って新たに隊士を募り「甲陽鎮撫隊」として奮戦するも援軍を得られず惨敗した。この敗戦を契機として、試衛館時代からの同士、永倉新八と原田左之助らが新撰組を離脱、彼らは「靖共隊」を結成し、新撰組とは別の戊辰戦争をあゆむことになる。
敗戦濃厚な状況を考えて善後策を練り、近藤らに諮るが、近藤勇の「我が家来ニ相成ルナラ同士イタスベク」という言葉に反発し、永倉新八らが袂を分かった原因の一つらしい。
池田屋事件後における近藤勇の慢心を観て、永倉新八、原田左之助、斉藤一らが会津藩邸に近藤弾劾の建白書を提出した頃から、この伏線はすでにしかれていたのではとタカナは考えます。
皆さんご承知の通り、土方 歳三が会津、蝦夷へと転戦し、ついに箱館戦争=五稜郭の戦いで突撃して、戦死する姿は、「侍としての意地をとおす=武士道とは死ぬことと見つけたり(葉隠の言葉そのもの)」死の美学であったのでしょうか?
土方 歳三の最後の写真
※土方 歳三は風流人としての側面もありました。
文久三年亥ノ春『豊玉発句集』から
「梅の花 壱輪咲弓も 梅八う免(梅の花 一輪咲いても 梅は梅)」歳三らしい強がりを感じさせる句ですね。


「土方 歳三」の胸像を囲んで旧五稜郭タワーにて
