《 墓碑386柱とパール判事 》後編
参考 田中正明著『パール判事の日本無罪論』、岡崎久彦著『小村寿太郎とその時代』、ウキペディアなど
明治維新の志士たちとパール判事は直接関わりがあったわけではない。
「パール判事の顕彰碑」 京都霊山墓地 09/12/08撮影
ただ、判事は日本の近代化への道程を、綿密に研究されており、不平等条約などをはねのけて、開国からわずか三十年ほどで西欧列強に互する国となり、「植民地化
=欧米列強がどれほど野蛮で卑劣であったかリンクしておきましたので確認してみて下さい」という洗礼を受けずにこれた、アジアで唯一の国であったから、驚異の眼差しで見守っておられたようである。
彼は同じアジア人として日露戦争での日本の勝利(彼が19才の時)を自分のことのように喜んだそうです。
あの強欲な大国「白人ロシア」を近代化の道を歩み始めたばかりの、同じ有色人種「小国日本が破った」このビッグニュースは瞬く間に世界中へ知れ渡った。
この戦争は西欧列強の植民地政策により耐え難い苦痛に喘いでいたアジア・アフリカ諸国に民族独立の火の手が上がる契機となったのは、云うまでもありません。
【 ラダ・ビノード・パール博士 1886年生 | 1967年没 】が、「判事の道」を選ばれたのは何故か?”極東国際軍事裁判の判事となられた経過は”
マハトマ・ガンディー
インド独立運動の父「マハトマ・ガンディー 1869年生 | 1948年没=弁護士として南アフリカで活躍していたが、職を辞しイギリス支配化にあった祖国インドの危機を救うべく立ち上がった」の影響もさることながら、後に義父となるスリ・プルナ・チャンドラ・パール氏の経済的な支援で数々の大学を優秀な成績で卒業でき法学士になれたことと、なんと云っても、母親の影響が最も大きいといわねばなりません。
彼の母は、彼を法律家にすることが終生の念願であった。彼に法律の勉強を勧めたのも彼女であった。彼女はインドのナショナルナイチンゲールといわれるほど慈悲深い、そして聡明な、しかも激しい愛国の情熱を胸に秘めた意志の強い女性であった。インド民衆の不幸を救うためには、インドを英帝国の手から奪い返すためには、息子を立派な法律家にすることだという強い信念を持っていた。この点、ネール首相やガンジー翁の母の願いも同じであった。
インドにおいて、白人と平等の立場においてものがいえるのは法律家のみである。ことに、当時カルカッタ高等法学院には、グノダース・バンドバッチャ卿という愛国的な、衆望を集めた名判事がいた。彼の母のパール青年に対する期待と熱望は、バンドバッチャ判事であった。そこで彼女は、卿のごとき常に虐げられた者の味方、インド民衆の救世主たれと、パール青年を鼓舞した。
「お母さん、僕はあのような立派な裁判長になれるでしょうか」「なれますとも、それ、お前の背丈は人並みにすぐれて高いでしょう。そのようにお前の精神も高いのですよ。・・・」、そして、自分の生活を切り詰めてまで彼女は経済的援助をし、息子を支え続けて1917年(大正6年)12月この世を去った。
それから、年月がたち1941年(昭和16年)1月、カルカッタ高等法学院の判事に就任した。ここに亡き母の念願がかなえられたのである。こうして1944年(昭和19年)奇しくもネール首相の任命で「極東国際軍事裁判」のインド代表判事に就任されたのでございます。
東京裁判の光景 ウキペディア提供
・【 極東国際軍事裁判 】という極めて、いかさま、破廉恥な法廷は、どのような過程で成立したのか、日本人の皆さんはよくよく知っておくべきです。「米・英・ソ連三国によるヤルタの謀議」などで、日本国土をズタズタにする計画だったのである。「ソ連の参戦による婦女子への強姦・数万人ものシベリア抑留」これも酷い。
”勝てば官軍か”日本には昔から、”勝てば官軍、負ければ賊軍”ということわざがある。東洋的諦観とともに、これほど正義を冒涜し、法の精神を無視した言葉はない。と同時に、これはすこぶる危険な思想である。
敗戦後、日本人が民族的自尊心を失い、卑屈になり、劣等感に陥ってしまったことは、否定できない事実である。敗戦を通じて、過去の過ちや失敗を正しく反省することは、当然であり、それは正しいことである。だが、不当なる劣等感に陥り、誤った罪悪感を抱くということは行き過ぎである。自分が罪を犯したという意識をもてば、卑屈にならざらるを得ない。
この意識をことさらに煽り立て、事実までねじ曲げて、過去の日本のすべてを罪悪であると決めつけたのが「東京裁判」である。アメリカの占領政策は、日本国民を骨抜きにしようということが、その大きな狙いの一つであった。権力や法律に弱い日本人の習性と相まって、「軍事裁判」といういかめしい外観をまといつつ行った占領政策は、日本民族の弱体化に100パーセントの効果を収めるのに成功したのである。
日本人の精神生活に烙印したこの根深い爪痕は、終戦後今日に至るまで、毒素のごとく、日本人の体内に残存し、これが色々な形をとって発酵しているのが、現在の日本の姿であるといえよう。
※ここで、帝国主義という時代、世界の耳目が「中国や朝鮮」の行く末に注目していたとき1893年(明治26年)のことであります。アメリカがドサクサで何をやったか、指摘しておきたい。
1881年(明治14年)12月、国務長官ブレーンは駐ハワイ米公使に与えた訓令の中で、ハワイの戦略的重要性を指摘して、ハワイを事実上アメリカの一部にしようとする意図を明らかにしている。
その後、ハワイ在住アメリカ人を中心とするグループはハワイ王政の専制を攻撃して、1893年に廃して革命政府を宣言した。王党派はこれに対抗しようとしたが、アメリカ軍艦が水兵160名と大砲数門を揚陸して脅し、最後の女王リリオカラニは、米国政府に抗議しつつ、武力には抗し難いという理由で一時的な退位を宣言するが、これがそのままカメハメハ王朝の終わりとなった。「泥棒猫タァーアメリカのことよ」
※日本もまた罠にはまったと思いますy。A・C・B・Dラインの包囲網で引き金を引かざるを得なくなり「ハワイの真珠湾攻撃」をしてしまい、まんまとアメリカの周到な謀略に乗ってしまったのです。「眠れる獅子を起こす」口実を与えてしまった。『窮鼠猫を噛』んだつもりだったようですが、物量と謀略にたけたアングロサクソンには打ち勝てなかった。
最近、平成維新などという言葉を耳にしますが、”軽い”命がけで国を守った志士たちが泣きます。タカナは「今一度、奮起せよ日本民族!」と叫びたくなります。軟弱になってしまった日本人を見たら「パール判事」が嘆かれるでしょうna。
1997年11月、インド独立50周年を記念して京都府京都市東山区の京都霊山護国神社に顕彰碑が建立され、パールの長男夫妻が来日し除幕式が行われた。
顕彰碑文
当時カルカッタ大学の総長であったラダ・ビノード・パール博士は、1946年、東京に於いて開廷された「東京極東軍事裁判」にインド代表判事として着任致しました。既に世界的な国際法学者であったパール博士は、法の心理と、研鑚探求した歴史的事実に基づき、この裁判が法に違反するものであり、戦勝国の敗戦国に対する復讐劇に過ぎないと主張し、連合国側の判事でありながら、ただ一人、被告全員の無罪を判決されたのであります。
今やこの判決は世界の国際法学会の輿論となり、独立したインドの対日外交の基本となっております。
パール博士は、その後国連の国際法委員長を務めるなど活躍されましたが、日本にも度々来訪されて日本国民を激励されました。インド独立五十年を慶祝し、日印両国の友好発展を祈念する年にあたり、私共日本国民は有志相携え、茲に、パール博士の法の正義を守った勇気と、アジアを愛し、正しい世界の平和を希われた遺徳を顕彰し、生前愛された京都の聖地にこの碑を建立し、その芳徳を千古に伝えるものであります。
パール判事の極東国際軍事裁判に対する「判決文」英文とサイン
・パール判事の極東軍事裁判に対する「判決文(法に正義ありという強いメッセージが込められている)」
訳文
時が熱狂と偏見とをやわらげた暁には また理性が虚偽からその仮面を剥ぎ取った暁には
その時こそ正義の女神はその秤を平衡に保ちながら 過去の賞罰の多くにそのところを変えることを要求するであろう
・パール判事は本当に「公正な裁き」が訪れる時が来ると信じておられたんですね、我々現代人も、そういう時代を醸成していく義務があるのかも知れません。