帰りの学活で
担任『連絡は・・・・』誰かが「ない!」担任『ない・・・終わりにしよっと・・・。』和秋」あれ?学級通信は?」担任『おっと、秘孔をつかれたあ・・・』和秋「ㇵッハッハッ、また誤魔化そうとして・・・」担任『これで学活を終わると』「ヨーッ!!ヨヨヨヨイッと」この頃、学活の度に和秋の奴に責められる。又、今日も言われるに決まってる。「あれ、どうしたの?幻の幻のそのまた幻の学級通信じゃん!」って。
亜希子へ
お前は勘違いしているよ。1組全員の前で、みんなの時間を潰して言ったことが、全部自分に対してだなんて・・・己惚れだね。俺はね。1組全員に言ったのさ。みんなが可愛くていい子だからね。みんなにわかってもらいたかったからね。男子にも女子にもみんなにね。だから、みんなに言ったんだ。俺が心配しているのはね、お前ひとりだけじゃないのさ。
大体、授業にまったく参加せずに手紙を読むんだか書くんだか・・・そんないい加減なことをやっておいて「私たちは真面目です」なんてよく言えるね。ケジメも全く無くて自分の言いたい事だけ主張する。それはインチキじゃないですか。人からあーだこーだ言われたくなかったら、やることはちゃんとやるんだね。半人前にもならない奴から手紙でガタガタ言われたって、俺は何にも感じないよ。相手をする気にもならないからね。あしからず・・・・。
続いじめ
「いじめ」という言葉が頻繁に使われるようになったのは、横浜の中学生たちによる浮浪者襲撃殺人事件あたりからで、それまでは「シカト」「ムラハチ」とか言われていた。詰まり、無視(シカト)、仲間外れ(村八分)にしたりする制裁が、更に陰湿度を増し、あからさまな攻撃を加えるようになったのが「いじめ」なのだ。
昔のような「いじめっ子VSいじめられっ子」の当事者間問題ではなくなってきている。いじめを容認する傍観者グループといじめを楽しむ観衆グループが、いじめっ子に加担し、擁護射撃するかたちになって集団の「権威」で個人をいじめる逆三角形いじめとなっている。だから、恐ろしい。だから(「権威」である教師や学校側からは「いじめ」は見えにくい。「みんな」で同じことを学習し、「みんな」で同じように反応し、「みんな」で同じ行動をとることを金科玉条とする学校という集団にあっては“個性”は「異端」とみなされる。没個性、無個性をよしとする画一化管理集団の中で“個性”を貫こうとすると「いじめ」の格好の標的となる。「学校なんて破産しろ」と言って先生に叱られ、反省を迫られても屈しなかった横浜の小学五年生は、稀にみる素直で健康な精神の持ち主だと僕は思うが、学校で“自分の考え”を表現すると「いじめ」にあう。先生はみんなの前で“自分の考えくん”を「狂っている」と叱責した。その結果、彼は自殺してしまった。そして彼を「いじめた先生」を、今度は一部マスコミが「生徒が自殺した時、その先生は雀荘で麻雀に熱中していた」と責め始めた。先生が麻雀が好きだって、ちっとも構わない。問題なのは先生が雀荘にいた事実を隠そうとしたことではないか。そういう風潮、そういう社会が「いじめ」を横行させるのだ。画一をよしとし、管理を享受しちゃっている現代日本人の一人一人が「虐め社会」の加担者なのだ。(朝日新聞より 山本コウタロウ)
*亜希子からどんな手紙が来たんだろう・・・。1年生の女の子が担任にしっかりと反論していたんだろうなあ・・・。
最後の文章は自分が書いたのかと思って・・・へえ、こんなこと書いたっけ・・と思ったら、新聞からの掲載だった。(笑)