8月15日の『朝まで生テレビ』を見ていたときに、このところの睡眠不足で頭が鈍り、また多忙なため準備不足で即座に丁寧に説明できなかった箇所への解説文書を記します。
(1)憲法1条と9条
(2)日本の安全――ペリー来航の件
(3)日本の安全――私が提唱する世界連邦への道
(4)安倍晋三総理の戦後70年談話の評価
(5)岸信介について。
(6)安倍氏の戦略について。
《◇―序・徒然(つれづれ)ななるがままに……》
上記6点について、時間の関係で解説するのは二点程度とします。
その前に、私は普通の人とは随分違う角度で物をみます。それは社会科学者であること、その上プレゼンテーション屋であることの性(さが)からでしょうか。
例えば、この日の「朝まで生テレビ」の中で、日本の危機について、ペリーが浦賀にきたときの話がでました。この件で、私が述べたことは後日紹介しますが、私な どは先に次のようなことを考えてしまうのです。
ペリーが日本に幾(いく)つかの事項を要求した?「ちょっとまって」、と。日本人で 誰か英語が分かる人がいたの?長い鎖国時代が続いていて。オランダなどは例外国であったが、オランダ語で書かれた『解体新書』ですら翻訳するのにどのくらい大変であったか。ましてや英語など誰もまともに理解できるはずはなかろう、となるのです。しかも大急ぎての交渉のときに。英語が多少分かる人がいたとしても、新幹線も飛行機もない時代にどのようにして現地に連れてくるの、と。
実際、日本が鎖国政策を止め、幾つかの外国語が日本に入ってきました。その頃ですら、英語の辞書には「犬」は「Come」と書いてあったものがあったのです。つまり、外国人が犬をよぶときに「Come、Come」と言いますので、犬はComeと勘違いしたのです。Comeとはカム(来い)であり、噛(か)むではありません。
後日調べますが、ペリーが日本に来たときには日本語の通訳は連れてきていないはずです。では、ペリーとどのように会話したのでしょうか。
一回目は「近藤良次、佐々倉桐太郎、中島三郎助の3名が黒船」に行き交渉したそうですが、「英語は話せないので、身振り手振りで帰れと言ったらしい」と某ホームページに書いてありました。
二回目の交渉では、外国語が一部分かる人が対応したとあります。でも、その後の英日辞書ですら犬が「Come」なのですよ!そうしたときに、条約の交渉など本当にできるのでしょうか。(いつか誤訳が招いた日本の悲劇も紹介します。)
では本題に入りましょう。
《◇―1》憲法1条と憲法9条――なぜ、天皇は戦犯とならなかったのでしょうか。
「朝まで生テレビ」の中で「東京裁判はいい加減である」とか、「何故(なぜ)天皇は戦犯とならなかったのですか」についての疑問がだされました。ここでは後者だけ(浜田流)解説をします。
イラク戦争を思い出してください。フセイン政権を転覆するのはあっという間でした。だが問題はその後です。大変長い間、アメリカなどはイラクの政情を安定させるのに苦労しました。軍国主義教育が徹底されていた日本ではそれ以上の困難が予想されていました。
戦前の日本の歴史教科書には縄文時代などは記述がないはずです。少なくとも、旧石器時代などはないでしょう。その位置には天照大神などがくるはずです。神話から始まり、やがて歴史に入るのです。そこまで徹底されている、東洋の国・日本の統治は大変難しいと、マッカーサーなどは想像したでしょう。では、逆手にとって天皇を利用したならばどうだろうか。このようなことをマッカーサーは思いついたのでしょう。
イラクに、日本の天皇のように約二千年の歴史を持ち、更に天皇制度として制度としての天皇制に近いものがあれば、それを活用すればフセイン政権後のイラク支配は相当簡単だったでしょう。フセインといっときは近かったとしてすら、フセイン政権後にフセインと手を切れば、その人物・制度を利用すれば、イラクの治安はあっという間に確立したかもしれません。
日本の統治上、マッカーサーが天皇制を利用しようと考えたのは、政治学者でもある私の目から見れば過去の事例研究をよくしていたと思います。マッカーサーのこのアイデアにより、一歩間違うとゲリラ戦・テロ行為などで、連合国及び日本人が流す血がどのくらい減ったでしょうか。(法の理論で考えれば、国内法でいう超法規的措置に近いかもしれません。)
しかし、マッカーサーには悩みがあったのです。
海外では、天皇は戦犯であるという声が圧倒的に多かったのです。「 アメリカでは1945年6月29日に行われた世論調査によれば、天皇を処刑するべきとする意見が33%、裁判にかけるべきとする意見が17%、終身刑とすべきとする意見が11%であった」{ ウィキペディア・項目「昭和天皇の戦争責任論」(2015年8月17日ダウンロード)}ということです。
それだけではなく、連合国側でも天皇を戦犯とすべきという声があったのです。
「連合国のイギリス、オーストラリア、ソビエト連邦、中華民国は天皇の戦争責任を追及し一部は死刑にすべきと主張していたが、マッカーサーの政治的判断で追訴を免れ、イギリスも第一次世界大戦でドイツ皇帝ヴィルヘルム2世を追放したことがナチスの台頭を招いたとして、天皇を占領管理の道具に利用すべきだと主張した。……具体的には、天皇を米軍の捕虜として管理し、さらにその捕虜を通して内閣総理大臣及び最高裁判所長官の任命に関与し、内政干渉するという計画書が策定された。一方、イギリス、オランダ、中国からは憎悪の対象として見られた。……」 { ウィキペディア・項目「昭和天皇の戦争責任論」(2015年8月17日ダウンロード)}
そうしたときに幣原喜重郎(しではら きじゅうろう、1872年~1951年)がとてつもないことを思いついたというのです。幣原喜重郎は第44代総理大臣を務めた人ですが、三菱の岩崎弥太郎家とも縁戚があり、他方、マルクス主義哲学で有名であった古在由重(こざいよししげ、1901~ 1990年)とも遠縁の関係にあるという人です。
何を思いついたかといいますと、天皇制を残すために、奇策・「憲法9条に該当するもの」をおもいついたのです。後の「戦争の放棄」と「戦力の不保持」という条文に繋(つな)がります。当時の国際政治状況から考えれば、人はびっくりしたでしょう。
「幣原は……『一番の念願である天皇制を維持』するよう協力を求めたあと、かねてからの世界平和の理想にふれ、そのためには『戦争を放棄するという事以外にないと考えると話し出したところが、マッカーサーは急に立ちあがって両手で手を握り、涙を目にいっぱいためてその通りだと言い出したので、幣原は一寸びっくりしたという』」。この箇所は、小林直樹氏の『憲法9条』(岩波新書)からの引用です。詳細は下記を参照していただきたいです。
《戦争放棄条項の発案者は誰か
憲法制定の過程に関するいろいろな資料がほぼ出そろってきた今日でも、第九条の発案者が誰であったのか、確定されていない。もっとも、やノートの筆者本人はいろいろの機会に、この条項を提案したのは、幣原(しではら)首相であると述べてている。たとえばマッカーサーは一九五一年五月、米上院の軍事・外交合同委員会での証言で、一九四六年一月二四日同首相と会談した折、幣原喜重郎が核時代の戦争の問題に対する「唯一の解決策は戦争をなくすことだと信ずる」といい、〝そういう条項を憲法に挿入するように努力したい〟と述べたと報告している。そしてこの提案に感激したかれは、立ち上って幣原と握手をし、〝それこそ最も偉大な建設的措置の一つだ〟と賛意を表さずにはいられなかったと説明しており、ほぼ同じ内容の証言を、憲法調査会の高柳会長に対する文書による回答の中で行なっている。
占領当時、マッカーサー司令官に最も近いところにいたホイットニーも、右会談の直後「シデハラの提案」の件をマッカーサーから聞き、首相のその考えがマ元帥を「ひどく喜ばせ」、これを憲法草案の原則にするよう決められたと、傍証して いる
そして一方の当事者であった幣原もまた、その著書『外交五十年』の中で、敗戦後の電車内で聞いた国民の叫びに打たれた体験を語り、「戦争を放棄し、軍備を全廃して、どこまでも民主主義に徹しなければならん」という信念をもつに至ったと述べている。この彼がそうした理想をマッカーサーに語り、後者がそれに感激して握手を求めたというエピソードは、諸般の情況からみて事実であったと認められる。また日本が国際的信用を回復するために、世界に向けて不戦の宣言をすることが望ましいという点でも、二人の意見は一致したようである。
直接の当事者が語るこうした事情をつづり合わせると、戦争放棄の宣言の発想は幣原によってなされ、マッカーサーがそれをノートに書き込んだとみてよいだろう。……》小林直樹、『憲法9条』(岩波新書)、1982年、29頁~30頁。
小林直樹氏の説を発展させれば、憲法9条と憲法1条は表裏一体、セットとして作成されたとなります。小林直樹(こばやしなおき、1921年~)氏は日本の法学者であり、東京大学名誉教授です。専門は憲法、法哲学であり、総合人間学会会長をされています。
私が早大大学院時代には、早大図書館の書庫の中に自由に入ることが許されていました。その書庫の中で、立法過程の研究事例などを調べていますと、小林直樹氏の著書に出会った思い出があります。20代当時の私から見ますと、小林東大教授は研究室に閉じこもらず、地道に立法過程の事例研究をされている人かと感心した思い出があります。あれからはや40年近くたとうとしています。
小林直樹氏の「憲法9条」の研究に、世が何故注目しないのか不思議で仕方ありません。
雑談ではありますが、同じく大学院時代に、日本の政治関連の本でろくな本がなかった頃に、さほど期待せずに読むと結構面白い本がありました。その本とは以下の本です。
渡辺恒雄監修、「(政治家・正当の表と裏がわかる小事典)新政治の常識」(講談社)、1977年。
そう、渡邉恒雄(わたなべ つねお、1926年~、読売新聞グループ本社代表取締役会長・主筆、株式会社読売巨人軍取締役最高顧問)の渡辺さんのことです。当時、渡辺さんは45才くらいでした。読売新聞のリーダーとなる人などとは当時は知りませんでした。
大学院時代に恩師・(故)内田満先生(当時自民党顧問:後に民主党に関心を持たれたとお聞きしていますが)から、「浜田君、自民党の国会議員にインタビューに行ってみたらどうですか。私の名前をだせば誰でも喜んで会ってくれるよ」と言われたことが何度かあります。その当時の若手が小泉純一郎氏などです。当時35才くらいでした。ただし、私は思うところがあり、市川房枝氏にインタビューにいきました。その頃の、市川房枝氏の選挙参謀が菅直人氏であったような気がします。
今回の最後にはっきりと、私の立場を記します。私は、党派中立・宗派中立主義者ですが、憲法9条擁護派です。そのためには日本国憲法そのものを守る必要があると考えています。そこで憲法1条も当然尊重するという立場です。
私の公式Blog:「私が司(つかさど)る・朝まで生テレビ・戦後70年の総括と明日の日本」―1より抜粋。