山口組二代目・山口登の若衆として認められた田岡一雄氏。
親子盃の日は昭和11年1月20日。
当時の田岡一雄氏は24歳。若衆の中でもだんとつに若かった。
そのなある日、親分・山口登二代目から若衆を試すような冗談半分に、当時人気絶頂の広沢虎造の花興行を打診した。
だが、花興行をうつには莫大なお金がかかる上、自分の利益は全くないような勘定。
分が悪すぎる条件に若衆はみんな尻込みした。
しかし、田岡一雄氏はその場の勢いだけで花興行を受けてたったのである。
以下、自伝の続き。次は広沢虎造の生い立ちから死去までの物語であるが、現代人には退屈な話なので割愛させていただきす。
花興行を引き受けたものの、資金をどう捻出するか、わたしにはまったく五里霧中であったが、わたしという男は運がよかった。
わたしが虎造の花興行をやると知って、まず家内がその大半の資金を黙って用立ててきたのである。
金をどう捻出してきたかは笑って語らなかった。
たぶん勘当同様だった実父・深山喜之助のところへ行って、田岡を男にしてほしいと頼みこんだにちがいない。
そして、自分の顔のきく、ありとあらゆるところを駆けずりまわって集めてきた金であろう。
家内はそういう女なのだ。
そのほかにも、ぞくぞくとわたしを応援するものが集まってきた。
アパート時代のバクチ仲間たち。"一二三"のバーテンや女給たち。
そして、昔のゴンゾウ部屋の労務者や「菊水館」の出前待ちまでが、1円、2円と血の出るような大切な金をかき集めて応援に駆けつけてきてくれたのである。
「あんたがやる以上、わいらはなんぼでも応援するさかい…。キップの前売りでも、会場の使い走りでも遠慮なくいいつけてほしいのや」
と、みんなが率先して勝手にどんどんやってくれるのである。
わたしはなんという果報者であろう。涙がでるほど周囲はわたしに温かかった。
金では換算できない大きな財産が、わたしにはすこしずつだができていたのである。
興行は昼夜2回。昼は新開地の「大正座」を借り、そのあがりはぜんぶ親分のものとなる。
夜は場末の県会議事堂を借り、わたしの主催であった。
どうみても親分に利のある興行であったが、いざ蓋をあけてみると、議事堂は超満員の大盛況であった。
駆け出しで若輩のわたしが、親分を完全に食ったのは、わたしを応援してくれた人たちの力である。
以来、わたしは先代・山口登の信望を集め、その財布を預かるほどかわいがられもしたが、花興行の1ヶ月後、わたしは親分と大ゲンカをしでかしている。