こんにちは、たーぼーです。



ブログを見てくれて
ありがとうございます。

🪻 🌰 🪻 🌰 🪻 🌰 
 
普段、私たちは
自分が見たり聞いたり触ったりしているものごとは


自分の外側に
目で見たまんまの景色、
耳で聞いたまんまの音、
手で触れたまんまの感触が
存在していると思っています。



それが全然違うようなのです。







十二因縁のなかの「触」というのは「認識」のことでした。


感覚器官としての五感(眼、耳、鼻、舌、身)
プラス心(意)と


その対象である六境(色、声、香、味、触、法)


それに一人ひとりが持つ心の癖あるいは傾向性である
「六識」
(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識)が加わって 


「認識」が発生するということだったので、



「無自覚的に
人は見たいものを見たいように見ている」
ということのようです。



「五感プラス心」に外部からデータが接触して、

そこに各人の癖や傾向性が働くから
その人に都合が良い認識が出来上がる・・



無自覚的に誰でも
自分に都合が良いように
「現実」をねじ曲げて認識している・・



無自覚だと言うことは、
誰でも、自分の認識がねじまがっているとは思っていない
という事です。





「十二因縁」のうち
「無明」から「受」までは
この世に生まれたら自動的にわいてきてしまうもの・・


との事だったので、
「受」の前に出来上がる「触」も当然、自動的にわいてきてしまうんですね。


本人の意思で変えるのは不可能なんです。





私たちの認識が
実際の現実とはまったく違うことを
もっとはっきり確認するために


ソファの前に横長のテーブルがある場面をイメージして見ましょう。


家庭の主婦の人がそこにいたら、
テーブルの上にスーパーのチラシや料理の雑誌を置いて
夕飯のメニュー決めや買い物リスト作りを
はじめるかもしれません。


その人は、それがテーブルとソファの使い方だと思っています。



小学生がそこにいたら
テーブルに宿題やドリルなどをならべて
宿題をやりながら時々ゲームで遊ぶかもしれません。


小学生はそれがテーブルとソファの使い方だと思っています。






もし、そこにいたのがネコだったら?

ネコはテーブルにもソファにも飛び乗ると思います。
乗ってから周囲を見回し、
面白そうな物があればくわえたり転がしたりして遊び、

人間の衣服やクッションの上に寝転がってみるでしょう。

寝転がって気持ちが良ければ「ニャーニャー」と喜ぶはずです。


ネコはそれがテーブルとソファの使い方だと思っています。




または、
キッチンの三角コーナーに生ゴミがたまっていたら、


人間は
「さっさと捨てなくちゃ」とか
「汚いな」とか思うけど、

そこに飛んできたハエから見たら
「これは良いものだ♥ラッキー!」と感じるはずです。




そんな風に
人間でも他の生物でも、
目の前の物や環境に対して、
基本的に自分に都合の良い認識を作り、



その、
自作の認識(マイ・ストーリー)を使って満足したり楽をしたりしているのです。

(逆にマイ・ストーリーのせいで

悩みや苦しみが発生する場合もある)



なので、
この世には絶対的に正しい認識なんて無く、

認識とはそれぞれの生命体が生きやすいように、
それぞれの生命体の細胞組織が連携して生み出すものなのかもしれません。


実際にそうならば、


「私は正しい。絶対的にわたしが正しい。

貴方は愚かである。」

という考えは、



持ってはいけないのかも。



それを、心の中で思うだけでも

人相が悪くなりそうだし、


はっきり表明したりしたら、

たいへんな争いに発展するのは確実です。


「私は正しい」と思うのは

かなり危険だと思います。




今日も、
最後まで読んでくれて
ありがとうございました。


ではでは。