こんにちは、たーぼーです。



ブログを見てくれて
ありがとうございます。

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前回のブログでは、

「十二因縁」の教えは滅苦に近づくための
「念・定・慧」の実践だと
学びましたが、


「十二因縁」を比丘たちに語った、
お釈迦様の言葉の意味は
どのようなことなんでしょうか?


それも気になって仕方がないので調べてみました。



・・・
比丘たちよ
縁起とは何か。
比丘たちよ
無明により行が起こり、
行により識が起こり、
識により名色が起こり、
名色により六処が起こり、
六処により触が起こり、
触により受が起こり、
受により渇愛が起こり、
渇愛により取が起こり、
取により有が起こり、
有により生が起こり、
生により老死が
愁悲苦憂悩が生じる。


・・・上記の発言の意味は?!





鎌倉にある禅宗のお寺、
建長寺のホームぺージに、
十二因縁の説明が掲載されていたのですが、

とてもわかり易い文章で大変よく判りました。






以下はその引用です。


・・
「どんな苦しみが生ずるのでも、すべて無明に縁って起こるのである。」とは、
スッタニパータ(728)にある言葉です。


我々が迷いや苦しみを引き起こす一番の原因は、
無知であると仏陀は説きました。


無知を「無明」といいます。


なにも分からない、混沌として無知なる状態から、
何かしらの力がはたらいて意識が生まれます。

この何かしらの力がはたらくのを、「行」と言いました。

梵語でサンスカーラというのです。

潜在的形成力などと訳されたりします。

なにかしら力がはたらいて、
なにかが形成されてきて、意識が生じるのです。

この意識を「識」と言います。

まだこの意識は盲目的なものです。

この盲目的な意識がこの身心にはたらくようになります。

この身心が「名色」です。
「名」は精神的なもので、「色」は物質的なものです。

そこで「名色」で心と体なのです。


この心と体に、
六根という目や耳や鼻や舌や身体や精神の活動が
起こるようになります。

これが「六処」です。


するとその六つの感覚器官が外の世界に触れます。

これが「触」です。


触れると、
自分にとって何か心地好いか、心地よくないかと感じます。

これが「受」です。

そこで好ましいものには愛着を生じます。

これが「愛」です。執着であります。妄執とも言います。


愛着を起こすと更に自分のものにしたくなります。

自分のものに取り込もうとしますので、これを「取」と言います。

執着であります。


そうして自分のものという概念が生まれます。

自分のものを集めて大事にし、さらにもっと増やしたいという生き方が出来てきます。
 

これが「有」です。 
生存のことです。


そのように生きて活動して、
自分の思うままにゆくと悦び、思うままにならぬと苦悩するという生涯を送ります。

これが「生」です。


やがては老い衰え、
そして最後はすべてを手放し、死を迎えます。

これが「老死」であります。

この無明、行、識、名色、
六処、触、受、愛、取、有、生、老死の十二を
十二因縁というのであります。





一切は無常であり、
自分という孤立したものはないし、
自分の思うようにもいかないのに関わらず、

自分というものが存在し、
自分の気に入ったものを自分のものにしたい、

更にはもっと増やしたいという思いを起こします。

こう思うことによって苦しみを造り出すのです。


苦しみの原因は、無常であることを知らない、

自分という孤立したものはないことを知らない、

思うようにならないということを知らない無知にあります。

これを無明と言います。

この無用からどのようにして、私たちが苦しみを造り出しているのかを、よく観察します。

それが十二因縁を観じるという修行であります。

大事なことは、 
苦しみの原因は無知、無明、
現実を誤ってみることにあるのです。



常に変わりゆくものを永続するものと考えること、
それが無明です。


自己という固定したものがないのに、
あると考えること、それが無明です。


思うようにはならないのに、
自分が主宰者のように思う通りにできると考えるのが、
無明なのです。


貪りも怒りも
恐怖も嫉妬も
そのほか数え切れないほどの苦しみは無明から生まれます。


その無明から解放されるためには、
物事を深く見つめて無常の本質、
独立した自己がないこと、


全てのものは相互依存して存在しているので、
自己の思うようにはならないことを深く理解することです。


これが無明を克服する道の第一歩です。


完全に無明を克服することができれば、
苦しみも超越することができるのです。



・・以上が建長寺のホームぺージに書いてあった事です。



そういう事なんですね。





私達は

無明(あるがままの現実が判らない)→
行(何かしらの力が働く)→
識(意識が発生)→

名色(精神と肉体が現れる)→

六処(感覚と心が働く)→

触(認識が生まれる)→

受(快か不快かどちらでもない感情)→

渇愛(むさぼり、怒り、無知)→

取(執着)→

有(生存への欲求)→
生(無知のまま生きること)→
老死(老いて衰えて死ぬ)→

というサイクルを繰り返しているんですね。



無知のまま生きて死ぬと、
「無知」という状態が消えることはないから


肉体が滅びても

無知は存在し続け、




「無知」から「行」がおこり
「行」から「識」がおこり
「識」から「名色」


つまり「心と身体」が
発生してしまう・・という事なのでしょう。


生まれ変わって再び人生を
体験するということかもしれません。



無明を克服しない限りは
生まれ変わって、


再び苦しみのサイクルに入るというのが
「十二因縁」の教えと捉える事もできますが、



別の捉え方も出来るのではないでしょうか?


私達は、毎秒ごとに「十二因縁」のサイクルをたどっていると・・



例えば
「ああ、家事が面倒くさい。全部放りだして逃げたい」
という感情がある(無知)

「あれ?」と何かしらの力が働いて注意が生ゴミに注がれる(行)

「あの生ゴミから変な匂いがする」と意識する(識)


「このままでは嫌だ」と言う心の反応と共に
身体も何らかの行動を起こす
(名色)


目や鼻などの機能を使い、変な匂いの原因を知る(六処)


「生ゴミの中に腐敗したニンニクが入ってる」
と認識する(触)


「ああ嫌だ。この匂いは嫌だ。」(受)


「すぐにでもゴミをビニールに入れて処分したい。」(渇愛)


実際にゴミを処分し
イヤな匂いが消えたか確認する(取)


「ああ良かった。匂いが消えた」と満足を感じ、
自分の思い通りになったことに喜ぶ。(有)


「そういえば、冷蔵庫の中には
他にも古い野菜がある。
腐っていないかしら?」と、
さらに自分の思い通りに出来る物事をさがす。(生)



自分の思ったとおりになったら喜び、
ならなかったら怒るという反応を繰り返すうちに老いる。
(老死)




こんな感じで、
私たちの毎日のささいな出来事の中にも
「十二因縁」を発見できるように思います。




今日も、
最後まで読んでくれて
ありがとうございました。



ではでは。