こんにちは、たーぼーです。



ブログを見てくれて
ありがとうございます。

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前回の続きです。



仏教の教えである「十二因縁」について調べていたら、


DANAnetというサイトに
詳しい説明が掲載されているのを発見しました。


説明して下さっているのはプラユキ・ナラテボー先生でした。



前回のブログでは、プラユキ先生が、


お釈迦さまによると十二因縁のうちの「無明」から「受」
までは
人間としてこの現実世界を生きているかぎり、
ふっと湧いてきてしまうもの・・とお話され、



「受」から「渇愛」が生まれ
さらに「取」が生まれる仕組みについて
詳しく語られた部分を引用させていただきました。


今回はその続きを引用させていただきます。





以下はその引用。



・・
このように触から受、
さらに渇愛、取へというプロセスが順繰りに展開していきますが、


ブッタによればそこから解放される道がある。


それには無自覚に反応しないことがまず肝要。


快・不快・中性に〝反応〟してしまうのではなく、 
しっかりと〝対応〟できるかどうかが分かれ目です。

反応してしまえば、感覚や感情に飲み込まれ、
流されていってしまいます。
 

私たち人間は心が鍛えられていないと
自然にそっちにいってしまうのです。
 

しかしながらブッダは、
〝反応〟してしまうのではなく〝対応〟していける力を鍛えることができるよ、
と確言されました。


そうした対応の道の中心になるのが「念(ねん)、定(じょう)、慧(え)」です。


これが、瞑想修行の核になっていきます。

私たちが苦しみの輪廻から解放されていくために
全力を尽くして培ってゆくべき力です。

それは、どういう力かと言えば、
「念」は覚醒する力。覚醒力。

それから
「定」は受容していく力、受容力。

「慧」というのは智慧の意味で、洞察する力。洞察力です。


すなわち、瞑想修行を通して、あらゆる出来事、
あらゆる現象に対して
 

「貪・瞋・痴」反応ではなく、「念・定・慧」対応していきましょう、ということです。




この「念・定・慧」対応、
わかりやすく表現すれば、

気づき(覚醒力)、
受け止め(受容力)、
理解(洞察力)
するということになります。

 

なお、対応ポイントとしては、「受」の段階で対応していければよいのですが、


そこで間に合わなければ、
「渇愛」や「取」の段階でもOKです。

いったんハマり込んでしまっても、その時点で気づいて、
ちゃんと対応できれば、滅苦へと歩みを進めることができます。


ただ、対応が後手に回るほど、そこから抜け出すのに余計な労力が必要となります。


したがって対応は早ければ早いほど良いのです。

気づき、受け止め、理解するという対応を
間に合うように努めていくことが、

瞑想修行において非常に大事になってくるのです。




覚醒力と受容力と洞察力――
気づき、受け止め、理解する。


これをわかりやすくするために、「子育て」を例にとってお話します。

未成熟な心というのは年端のいかない子供のようなものです。


子供たちは生々しい情動の塊のような存在ですね。

快のときには素直に喜びを表し、
不快なときは癇癪を起こしてワーワー騒いだり、
悲しんでエーンエーンと泣きわめいたりします。



そのように子供たちが素直に感情を放出したとき、

親に受け止める度量がない場合、

そうした子供の感情に動揺して取り越し苦労をしてしまい、

常に子供を監視して「過干渉」してしまうことがあります。



あるいは、子供が手に負えず、思わずひっぱたいたり殴ったり「虐待」してしまうことも。


その他、子育ての放棄、
いわゆるネグレクトしてしまうケースもあります。

これら「過干渉」「虐待」「ネグレクト」こそが、


アダルトチルドレンの人たちの家庭でよく起こっている
三つの要素であり、

そうした機能不全家庭で育つことにより、
子供は成人してもなおトラウマを抱え、

実生活や人間関係の構築にあたって
大変な困難に見舞われることになるわけです。





ところで、私たちは生々しい情動がふっと湧いてきたとき、

同じような反応をしていないでしょうか? 
 

例えば、自分の感情にいつまでもこだわり続けるなど、

こうした心への「過干渉」が「貪」にあたります。

あるいは、自分の心が手に負えず、思わず否定したり、
自己嫌悪してしまったり、

 
このように自身の心を「虐待」してしまうこともあります。


これは「瞋」にあたりましょう。


それから、自分の心にしっかりと向き合うことなく、
甘いものやお酒に逃げてしまうなど、

自分の心に対してネグレクトして、
心を育てることを放棄してしまうこともありましょう。

これは「痴」にあたるといえます。


こうした「貪・瞋・痴」反応をしている限り、
私たちの心は健全に育つことなく、


苦しみの連鎖を続けてしまうことになるのです。


これに対して「念・定・慧」対応というのは、
自分の内に湧いてきた生々しい情動やイメージに対しても、

それをあるがままに気づき、受け止め、
理解するという対応を取ることを言います。


他の言葉で言えば、
覚醒、受容、洞察を持って対応するということです。


気づくというのは見守ることです。

受け止めるというのは受容。

そして、あるがままに理解していく。



子供の感情に翻弄されることなく、
適切な対応を通して子供を健全に育てるのと同様に、

心に対しても正しい対応を繰り返していくことによって、 
心を健全に育てていくことができるのです。


心にはさまざまな状態が起こってきます。

それは心の内容物、
「コンテンツ」ということができます。


ところでブッタの瞑想の特徴は、

そうした心の状態自体を
変えていこうといったアプローチはとらず、


こうした心の内容物に対して
正しく「念・定・慧」対応していこうとする。


いわば、正しい文脈、 
「コンテクスト」を培っていくことを重視していくのです。

 



・・以上で引用は終わりです。




ここからは私の勝手な考えですが

「念・定・慧」対応とは、
わかりやすくイメージすると


「凶悪なこころを冷静に観察しつづける」みたいな事ではないでしょうか?


例えば、
心が「あいつぶっ殺してやる」と言っている・・

それに気づいたら
その凶悪な心に手錠をかけて
ひたすら監視する


・・やがて心が疲れてきて
「ああ腹が減ったな。ご飯食べたい」と言い始めたら
手錠をはずしてちょっと離れた場所から心の行動を見守る


ご飯を食べて落ち着いてから
次に心は
「面倒だから片付けたくない」と言い始める、


だけど、心のワガママを放置せず「めんどくさい」と言う
情動をあるがままに観察する、


すると心はまた違う気分や感情に変わる・・



このように
心のコンテンツに対して意識を向け続けていると
心はだんだん、問題を起こすことができなくなる・・



私はこんな風にイメージしました。




今日も、最後まで読んでくれて
ありがとうございました。


ではでは。