こんにちは、たーぼーです。



ブログを観てくれて、ありがとうございます。


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十二因縁(じゅうにいんねん)という言葉が気になって仕方がなかったので調べてみたら、



十二因縁は
仏教の教えのひとつで、


生きる苦しみを発生させる12段階の仕組みと
その12段階から抜けたら苦しみが消える事が
説かれていると知りました。





お釈迦様はこのように言ったそうです。

・・
比丘たちよ
縁起とは何か。
比丘たちよ
無明により行が起こり、
行により識が起こり、
識により名色が起こり、
名色により六処が起こり、
六処により触が起こり、
触により受が起こり、
受により渇愛が起こり、
渇愛により取が起こり、
取により有が起こり、
有により生が起こり、
生により老死が
愁悲苦憂悩が生じる。
このようにして、
全ての苦蘊は生起する。
・・



これだけ聞いても、
全然意味がわかりませんね。




そこで、
DANAnetというサイトに掲載されている
十二因縁の説明を読んでみました。


プラユキ・ナラテボー先生が説明して下さっていたのですが、


こんなふうに話されていました。





・・・
ブッタによれば、十二因縁のうちの「受」までは、
人間としてこの現実世界を生きているかぎり、
ふっと湧いてきてしまうものです。

感覚器官としての五感(眼、耳、鼻、舌、身)
プラス心(意)と

その対象である六境(色、声、香、味、触、法)

それに一人ひとりが持つ心の癖あるいは傾向性である
「六識」
(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識)が加わって


三者和合することを「触」と呼びます。

これは「認識」とだいたい同義になります。



「無明」から始まってこの「触」までの過程を

「無自覚的に
人は見たいものを見たいように見ている」と 
表現することも可能かと思います。


私たちは通常、
誰もが同じ世界を見て、
同じように認識しているように思いがちですが、

でも厳密に見れば、
一人ひとりが異なった世界に触れている、
生きているのです。



それゆえ、
そこで生じてくる気分も人それぞれ異なってきます。

こうした気分、情動を「受」と称します。


「受」には快、不快、そして快でも不快でもない中性的な感覚の三種があります。



真理を悟りきっていない我々凡夫は、
人それぞれ心の癖にしたがって、世界を立ち上がらせ、

意味づけ、味わっていることになるわけです。





十二因縁の教えでは、
「受」の段階をとても重視しています。

「受」には、快、不快、中性の三種があります。


私たちは日々、瞬間瞬間に、
いろいろな色や形、音や声、
さまざまな香り、味、
身体的な感触と触れています。


一般にこれは外界のものとの接触と理解されています。


それから内界のもの。
心と称されるものですね。


いろいろな記憶に触れたり、
さまざまイメージや気分に触れてみたりとか。


そしてそれに触れた瞬間に心地よさを感じたり、
不快感に襲われたり、

あるいは、
快でも不快でもない気分(不苦不楽)を感じているのです。


そうした気分にしっかりと気づいていないと、
あるいは自覚していないとどうなるかといえば、


快を感じた時には、
基本的には「貪(とん)」すなわち貪る方向、 
運動観点で言えば引力が働き、

対象に引き付けられていっちゃう、
あるいは手離せずに、しがみついちゃうような反応が起こります。


一方、不快だと「瞋(じん)」
反発する反応が起こります。

「貪」が引力なら「瞋」には斥力が働きます。


磁石のプラス同士を近づけたときに反発し合うような力ですね。


ところで、反発して目をそらしたり逃げる場合もあれば、
戦ったりするような態度に出ることもあります。

それで対象を否定していったり、あるいは嫌悪したりしてしまうことにもなります。

こうした状態を表すのに
一番近い表現として「怒り」とも呼ばれているわけです。


それともう一つ、快でも不快でもない
中性的な感覚に触れるとどうなるかと言うと、
「痴(ち)」といわれる反応が起こります。


これは、
刺激がないからボケーっと呆けてしまうような。

あるいは心が浮ついて頭が真っ白になったり、

何がどうなっているのか、
どっちへ行ったらいいかがわからなくなったりして、
グルグル迷って回り続けてしまうような状態が「痴」です。



我を忘れてしまうと、
こうした〝貪瞋痴とんじんち反応〟が起こるのです。

そうした三種の反応を「渇愛」としてご理解いただくと、
分かりやすいと思います。


いずれも我知らずに〝反応〟してしまっているわけですね。


無自覚でいると、次にハマり込んで執着となる。


引っ張られた挙句に
今度はどっぷりとそこにハマり込んでしまうわけです。

怒りであれば、
怒りそのものになりきっちゃっている状態が仏教でいう「取」、執着という段階です。

渇愛の段階の引っ張られている感じと異なって、
もう欲や怒りそのものになってしまう。

そういった同一化状態が「取」です。
最近の認知療法でいうところのフュージョン、融合状態、
ネバネバとして離れないような状態ですね。


(次回につづく)



・・・・プラユキ先生の説明は、とてもわかり易く
ありがたいですが、


長くなってしまったので、
この続きはまた次回にお話します。



今日も、
最後まで読んでくれて
ありがとうございました。


ではでは。