こんにちは、たーぼーです。



ブログを見てくれてありがとうございます。



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先週、
市内のアースプラザのホールで舞台演劇を鑑賞してきました。


「マリヤの賛歌〜石の叫び」という舞台です。



「マリヤの賛歌」は、
もともとは城田すず子さんという、

旧日本軍の慰安婦として台湾やサイパンに従軍していた
日本人女性が書いた自伝です。


だから私が鑑賞した舞台は
その自伝を舞台化したものなんですが、



慰安婦であった過去をカミングアウトした女性は、
朝鮮半島には数名いらっしゃると知っていましたが、


日本人女性の中で証言したのは
城田すず子さんひとりだそうです。
(もし違っていたらごめんなさい。)





私は2ケ月前にアースプラザの中のフェアトレードショップに
立ち寄った際に
この舞台演劇のチラシを手にとりました。


その時に初めて、
城田すず子という女性がいたことを知りました。



戦争の時代を生きて、さんざん苦労した女性たちの中でも、
もっとも過酷で

「ひとばしら」みたいに扱われた女性たちの事を
知らないままでいるのは申し訳ないような気持ちになり、


舞台のチケットを買いました。





・・・

城田さんは1921年に
東京の下町のパン屋の5人きょうだいの長女として生まれ、

働き者の母と優しい父のもとに
裕福な家庭で育ったそうです。

ところが、
城田さんが14歳の時に母親が病死し、
悲しみのあまり父親はギャンブルにはまり、
パン屋はつぶれてしまった。


家を追いだされ、17才の時には
お腹を空かせた弟や妹のために
芸者屋に子守奉公に出ることに。

芸者の道へ進もうと考えていたところが
父親の借金の肩代わりをするため、体を売る羽目になって。


年頃の少女だから、
近所の大学生に恋心をいだいていたが、
二度と会うことはできないと涙をのんだ・・


家族の借金を減らすため、
横浜の遊郭で働いた後、
台湾の戦地に「慰安婦」として渡ることに。

その後は地獄のような光景を目の当たりにする日々になった。


一時、帰国するが、再びサイパンの「慰安所」へ。 

戦況が悪化し、城田さんのいる島にも米軍が猛攻撃・・
無残な最期をとげた同僚たちのことが忘れられない。



命からがら戦火を逃れ、
1945年8月15日、南国の密林の中で、敗戦の知らせを聞いた。

引き揚げ船に乗り、やっとの思いでたどり着いた日本。
でも人々の目は、元「慰安婦」に冷酷だった。


夜の世界で生きていくしか術がないと思い、
自暴自棄になり薬物に手を出す。


戦後、日本に残っていた米国の進駐軍の相手をしたり、
全国の遊郭を渡り歩いたりした。

そんなある日、駅の売店で目にした週刊誌の誌上で、
キリスト教徒の方々が運営する
婦人保護施設「慈愛寮」を知った。


「私の行くべき所はここだ!」と強く思った城田さんは、
その足で東京の新宿区にある慈愛寮に向かった。


教会で礼拝をささげ、
賛美歌の一つ一つ、聖句の一つ一つが城田さんの胸に刺さり
涙を流したそうです。



その後重い病にかかり、
手術を受ける前日、病床で受洗。


練馬区にある
「ベテスダ奉仕女母の家」の婦人保護施設に入寮した。


長年の無理がたたって、ある日
背骨を骨折し
寝たきりの生活となった。


1965年、館山市の「かにた婦人の村」の誕生と同時に入村。
ここが終の住処になった。


という経歴の方だとの事です。


・・・



「かにた婦人の村」とは、
昭和20年代から「奉仕女」の育成に取り組んでいた深津文雄牧師 が

1958年に売春防止法が成立した時に、
元売春婦を対象としたコロニーの必要性を感じて設立した
共生の村・・だとの事です。



「奉仕女」という言葉は、
まるで知らない言葉でしたが、
調べてみたら、



19世紀にドイツで誕生した
「ディアコニッセ」と呼ばれる女性たちの事で、

困窮者を助けるために
生涯独身で神の御言葉に従い
生活する方々を指しているそうです。


日本で初めてディアコニッセになったのは
天羽道子さんという方だそうなのですが、


なんと、
その天羽道子さんが私が行った舞台演劇の客席にいらしたのです。



何も知らない私は、

「なんだかすごくお年をめした女性がいるな。
修道女のような服装だけど、
誰なんだろう?」


なんて首をかしげていたのでしが、
こんな行き当たりばったりの生き方をしている私でも、


困窮者に生涯をささげる決意をした方々と
数時間でも同じ空間にいられたのは幸運でした。




今日も、
最後まで読んでくれて、ありがとうございました。


ではでは。