こんにちは、たーぼーです。


このブログを見てくれて
ありがとうございます。

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赤ちゃんだけが自由意志のない「無我」の状態なのではなく

誰もがすべて、
自由意志を持たない状態にあるんだ・・

私の行動は、ただ起きていることなんだ。


私がこの事に気がついたのは6年前です。




そこに気がついた時は
しばらくの間、
心が平和で悩みが消えた感じがしていましたが、



しばらくすると
「私がいる」という感覚がだんだん強まり、


すると「このままではいけない」とか
「これでは不十分だ」という感じがあらわれました。



困った事が起きるたび

「嫌だけど自分でなんとかしなきゃ・・!」とか

「うまくやらないと軽蔑される!」とか


焦り、怒り、無力感、嫌悪感、虚しさなどの
苦しみを感じるようになりました。



世界では毎日悲劇も不幸も数えきれないほど起きているのに、


自分の目の前で起きている不都合な出来事にだけ
必要以上に身構えたり、

恐れたりしてしまうのは何故なのかというと、


その不快な体験をしているのは
「私」だと信じてるからです。




ほとんどの人は自分の皮膚の内側が自分で
外側は自分ではないと思っています。

だけどその皮膚を作っているのは
外側にある酸素や水や食べ物です。


呼吸や栄養摂取や排泄をやめたら死んでしまうし、

昼間に太陽光を浴びないと生体リズムが狂ってしまうし、

皮膚の外側と内側が常にやりとりして
「私」が成り立っています。

だから自分の皮膚の内側が自分だと感じているのは
明らかに錯覚です。


人間の体は
5年~7年ですべての細胞が入れ代わるそうです。

生まれた時の体はとうの昔に消滅していて、
痕跡すらありません。


大人になって「この私はお母さんから生まれた。」
と言う時は事実を言ってるのではなくて

親子のつながりを示すための文学的表現を言ってるだけです。


体の細胞は常に新しい物に変わっています。
数年前の体は消滅しています。

今ここにある体は常に外側から何かを採り入れて
不要なものは外に出していて

「私」と呼べるような、
世界から切り離された個人は
どこにもいないのですが、


私たちには自我があるから、どんな時にも
「私はこうしたい」とか
「私はこれが嫌だ」とか
「私は今退屈だ」とか

そういう不足を感じる思いがわいてくるのだけど、

その思いを発生させているのは自分ではなく、

五感から入ってきた情報や過去の記憶などに反応して
自動的に思いがわいています。




なので、
「まだ足りない」
「このままではダメだ」
という思いは、

「私」はどこにも居ないと心の底から納得できたときには
かなり薄まるのです。


熟睡してる時は「私」が消えているので悩みも消えてます。


この「私がいる」という感覚は自我とも呼ばれますが、

2才になる前後ぐらいから少しずつ現れるようです。

1才半ぐらいの幼児には自我はないと思います。


何故かというと1才半の子供は自分がオムツの中にうんちをしても全然気にせず、

おしりにうんちがくっついてる状態で楽しそうに遊んでいるからです。

無理にオムツを替えようとすると泣き叫びます。

あれは自分と排泄物の区別がないからです。


2才の子供でも同じようにオムツの中にうんちをしたまま
遊んでいる場合があります。

ただ2才児の場合、
「うんち、でたの?」とたずねると
「うん。」と答えますし、

「じゃあ、お尻きれいにしようね。」と言うと、

「うん。」と言って従ってくれます。

おそらく2才過ぎると、
自分の体の中が自分で、体の外に出たものは自分ではない・・

と感じ始めるのだと思います。


その辺りから世界と自分が別れている感じ、
「分離感」が現れ始め、


言葉を覚えるにつれて、
それまでは感覚で感じるだけだった世界が

「好きなものと嫌いなもの」

「良いことと悪いこと」

「自分のものと人のもの」

「子供と大人」


などの区別がある世界に変わり、
だんだん言葉で表現できる世界が現実だと思い込み

自分の口から出る言葉を自分の言葉だと思い、
他人の口から出る言葉を他人の言葉だと思うようになるため、

(本当は自分とか他人という
全体から分離した人はいないというのに)


赤ちゃんの時には誰もが知っていた真実、

世界はすべてがつながって変化し続けるもので
誰も分離してない・・
という感覚が消えていくのだと思います。



今日も、
最後まで読んでくれてありがとうございました。


ではでは。