久々のブログです。
日々一生懸命生きていて、
もちろん、楽しいことや素敵なこと、感動的な発見もたくさんあった中、
いつの間にか、疲れとストレスが溜まっていました。
久しぶりにゆっくりする時間が取れたので、「よし、今日は瞑想!」
静かに座って、
ただただ呼吸して。
そうしたら、
「悲しみ」が、いっぱい出てきた。
ぽろぽろたらたらこぼれる涙。
悲しみを、
ただただたくさん感じて、
たくさん涙を流した。
それは、
もちろんいくつかの出来事と関連した悲しみだったのだけれど、
誰がどうしたとかいう因果関係は、そんなに重要なことじゃなかった。
ただただいっぱい悲しみを感じた。
途中で、さすがに拭こうと思ってティッシュをそのまま顔に当てたら、
フェイシャルマスクみたいになって、あまりのそのままさにびっくり。
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ああ、「悲しみ」の顔だ、と感じた。
それで思い出した。
むかーしむかし、精神科でPTSD治療を受けていた頃のこと。
とても信頼していて大好きな主治医(女性)に対しても、なかなか核心のことは話せなかった。重たすぎたから。
でも、核心的な話をしなくても、ただ会って、「さいきんどう?」って訊いてもらえることが、何よりの癒しだった。その積み重ねが、とても大切だった。憐れまれるのでもなく説教されるのでもなく、ただシンプルに「一緒にいてくれる」ことが、何よりも貴重な体験だった。
そんな中で、ある日、ふと描いた絵を持っていった。
それは、青い水彩絵の具で単純に書いた、人の顔の絵だった。
輪郭があって、
耳が2つあって、
丸い2つの目があって、
棒のような鼻がある。
それだけ。
タイトルは、
「悲しみには口がない」。
主治医は、それを見て、「そうか、悲しみには口がないんだね」と言った。
うん、と私は言った。
喜びや楽しさは、人からも受け容れてもらえやすい。
怒りも、外向きのエネルギーだから、発しやすいかもね。
でも、悲しみは、自分のやわらかい部分と直結した感情だから、
安心できる環境でなかったら、表現するのは難しいね。
ついつい、「弱さ」と関連付けて感じてしまったりもするし。
だから、「ポジティブでいなきゃ!」とか思ってると、「悲しみ」は「都合の悪い」感情になって、ないことにされてしまいがち。
でもそれでは、自分の大切な一部を、否定したままになってしまうんだなぁ。
「感情に呑まれる」のはあまりいいことないけど、
「感情否定」も、いいことない。
「感情を受け容れてバランスよくつきあっていける」くらいが、いちばん良いよね。
「感情も含めて、自分をまるごと愛せる」ってなったら、とても生きやすく幸せだね。
ぽろぽろ泣きながら、
「悲しみ」をたくさん感じながら、
ふと気がつくと、切ない気持ちが、愛おしい気持ちに変わっていた。
ああ、「悲しみ」と手がつなげた、って感じた。
私は私と手がつなげた。丸ごとの私になれた。
安心。愛。あたたかさ。
先にも書いた治療期間には、膨大な量の文章や詩を書いていました。
そんな中で、こんな言葉を書いたことを思い出した。
~~~~~~~~~~~~
悲しみさん
一緒に生きよう
あなたの声が聴きたいの
~~~~~~~~~~~~
怖くて安心できていなかったから、否定していたんだよね。
ぜんぶ受け容れて生きていけるくらい、強くなった。
人は、
私は、
ポジティブばかりでもネガティブばかりでもなく、
強いだけでも弱いだけでもなく、
陰だけでも陽だけでもなく、
ぜんぶを含めた、全体性の存在。
ああ、なんだか、バランスが取れた(^-^)