歩いて癒す | 12枚の羽根の歌

12枚の羽根の歌

生きることは踊ること!

夕方、心地よい旅に出てきました♪ 家を出て帰って来るまで、1時間15分くらい。
まあ、いわゆるお散歩です。

日常、他のことに気を取られてない時は、だいたいカムイ・アーツで身につけたことをする。
竜脈整体(竜脈運動)や、受け容れる(ブロック解除)、手放す、50:50の感覚……

足のブロックが、思っているよりもずっとたくさんあるんですね。
足の甲や足の裏や足の指。ブロックを解除することに意識を向けると、ふと、足首の関節がずっとやわらかく使えるようになっていることに気づく。

ブロックがある時にはなかったやわらかさ、しなやかさ。

ああ、ちゃんと連動してる、って感じる。

そうこうしているうちに、身体中の関節の動きが良くなって、まるで身体全体が、袋の中に入った水の中に骨が包まれているかのように、しなやかに動くようになる。

とっても心地いい。

足の裏は、一歩ごとに、大地と出会って別れる。ブロック解除し続けているうちに、固まって意識できていなかった足の指の関節のひとつひとつも、ちゃんとやわらかくなって、動くようになる。
地面と出会って、固まることなく、形を変え続けて、動いていく。

歩くってこういうことだったのか、と新鮮に感じる。


やっぱり土や草の方がずっと心地よくて、
アスファルトは硬い。


……と感じるんだけれど、
そんな風にして出会いながら歩いていると、「アスファルトだから嫌」ではなくて、それもまたひとつの出会い、と感じるようになる。
そして、やわらかい土や草に癒され、いろいろ教えてもらうように、
今度は私がアスファルトを癒そう、とふとおもった。

方向は、どっちかだけということはない。どこかでおしまい、ということはない。

すべてのものは粒子でできているから、性質の違いはあれど、なんらかの方法で響き合うことができる。

アスファルトをいとおしく感じた。
一歩歩くごとに、アスファルトとの出会いを受け容れて、感じ合い続けた。


だいたいね、
舗装道路を作ってるのは人間(私)だよね。
なのに、その人間に「硬いから嫌」とか言われたら、悲しいよね。
子どもが、母親にそんなこと言われたら、悲しいよね。

愛されたいよね。


竹やぶのそばを歩くと、立派に伸びた竹の青々とした節に、目が惹きつけられた。
眩しいくらい、命を放っていたから。
魅入られたように、ぎりぎりそばを歩いていたら、
歩道にはみ出してる竹の葉っぱがたくさん顔にあたって、それが嬉しくて、
気がつくと、何だかぷわ~~~んとした顔になっていた。


こんな、家からちょっと散歩に出ただけで、
なんてたくさんの至福の出会いがあることだろう。

ただ歩くことが、驚きと癒しに満ちている。


癒されるものは、
やわらかくて、
響き合いやすいもの。
命が生き生きと伝わるもの。

そういうものには、触れると、おたがいに変化しあう。


人間が作るものは、
基本的に、「できるだけ変化しないように」作られている。

そりゃそうだよね。車輪がスムーズに通れるように作られたのが道路。やわらかくて変化しやすかったら困るんだ。
家だって塀だって川の護岸だって、「変化したら困る!」っていうのが大前提にあるんだ。


それを「視野が狭いなぁ」とか「不自然だなぁ」とか思うのではなく、
ああ、そうやって作ってるなら、そりゃそうなって当然だな、っていう感覚で感じた。

そんなの当たり前じゃん、っていうようなことかもしれないけれど、
何だかいろんなことを、不思議で新鮮に感じた旅でした。


春だからかしら!