12枚の羽根の歌

12枚の羽根の歌

生きることは踊ること!

★~★~★ ビオダンサ@王子 with なおこ ★~★~★~★~★


 私takakoがスタッフをしている、ビオダンサの月1クラスです♪ 初心者もOKです。お気軽にご参加ください(^-^)/

 会場:東京都北区 「北とぴあ2F つつじホール・リハーサル室」

 参加費:3000円 

 申し込み・お問い合わせ: biodanza★twelvefeathers.com  (★を@に変えて送信してくださいませ)


■今後の予定:

 2/19(金)13:30~15:30

 3/11(金)13:30~15:30

 4/11(月)13:30~15:30

 5/28(土)10:00~12:00


●ファシリテーター・なおこのブログ  


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今日は、親しい友人たちと、周産期心理学シェア&ワーク会でした。

いとおしい時間。

「人間にとって、誕生より前の9ヶ月間は、おそらくその後の70年間よりもはるかに興味深いもので、はるかに強烈な出来事を含んでいることだろう。」

昨年、ジュディス・ウィ-バー博士が、「周産期心理学WS」の中で紹介してくれた言葉。

それほど、受胎~出生の時期に体験することは私たちの深いところに影響を与えているにもかかわらず、
言葉を覚える以前の頃の出来事なので、私たちは言語レベルでそこにアクセスすることができない。

でも、その時期の体験は、「感覚」や「身体」を通して私たちに語りかけてくる。

今日特にフォーカスしたのは、精子と卵子が出会い、結びつき、着床するまでのこと。

射精で放出される三億の精子たち、いっせいに卵子のもとへ突き進む。
実際に結びつくのはたったの一つ。

でも、三億の精子たちが、おたがいを蹴落とそうと競争するのではない。

~~~~~~~~~~~~~~~~
生物学者によれば、精子細胞には、"戦士" と "恋狂い" の二つのタイプがある。"恋狂い" たちが卵子に向かって突き進むのを、よそ者(他人の精子)が邪魔しないように、大勢の"戦士" は後方で隊を組み構えているのだ。
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 (トマス・バーニー+パメラ・ウェイントラウブ著 『胎児は知っている母親のこころ』 より)
  
なんて感動的なのでしょう!!! って、集まったメンバーで盛り上がった(^-^)
なんて男らしい行動なんでしょう!! 精子のみなさん!!!

 「おまえは早く先へ進め! ここはおれたちが守る!!」

なんて声が聞こえてきそう(≧▽≦) 

そうしていくつかの精子が卵子に到達した時、
最初に到着した精子や、いちばん勢いがあった精子が卵子と結びつくわけではなくて、
卵子自身が、相手の精子を選ぶのですって。

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卵子は受精というドラマに受身のかたちで参加するのではなく、自分から殻を破って、自分が惚れこんだ精子を、文字通り抱きいれるのである。
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「惚れこんだ精子を抱きいれる」って!!!
なんてロマンチック♡

このあとにもとてもドラマチックな展開が起こっていくのだけれど、
それについては、これまた濃すぎるので、後で書きます。

それにしても、
妊娠・出産にはいろんな状況があるとは思います。中には、十分に条件が整っていなかったり、さまざまな意味で、望まれなかった妊娠出産もあることでしょう。

でも、今日集まったメンバーの間で飛びかった想いは、
外側でどんな状況だったとしても、その卵子とその精子の出会いは、紛れもなく卵子の意思のもと、「この相手がいい!」と選ばれて起こったもので、
100%肯定的なものなのだ、ということ。

生まれて生きている私たちはみな、そんな厳選された、惚れて惚れられた結びつきから命が始まっているのだということ。

父や母との間のさまざまな葛藤や、
胎内にいた時の条件や、
生まれてからの環境のよしあしや、
いろんなことは、あると思うのです。

でもやっぱり、命がいまここにあるというのは、奇跡以外のなにものでもない。
あなたもわたしも、生きた奇跡なんだなあ。

ひとつの卵子とひとつの精子が出会って結びつき、そのたどった道のりの先に、今のあなた、今のわたしがいる。

なんだか、身体の細胞のひとつひとつが熱く震えるような、感動です。
今日は、夫が珍しく、平日に仕事が休みでした。
しかも、昨晩は仕事帰りに飲んで帰れなくなって、サウナに泊まって、朝……というか午前帰り(笑)

で、私は今日はサンバレッスンで、朝から外出。
夫とはメールでやり取りしただけで、顔を合わせないまま家を出ました。


中身の濃い~レッスン(本来は私は歌なのですが、昨年から新たにブラジルの太鼓に挑戦してるので、新境地……と言えば聞こえはいいけれど、完全に言葉のわからない異国に放り出されたよう)

……を経て、自分のできていないところを思い知らされたり、すごい人たちってほんとにすごいんだな、ってことを改めてしみじみ感じたり、
90分のレッスンからすさまじい刺激を受けて、ある種気分の高揚した状態で、
しかも駅から家まで自転車で15分かかるので、体もすっかりヒートアップした状態で、帰宅したわけです。



そこで待ち受けてたのは、夫。
いや、私のことを待っていたわけではなく、
すっかりだら~んとくつろぎきった夫。

テレビで、なんかDVDで借りてきたらしい、お笑いものを見てる。


夫はふだん、朝から晩まで、通勤に往復3時間かけて、働いてくれてます。
家にいる時くらい、そりゃあくつろぎたいでしょう。だってオフなんですから。


一方、私はわりと意気揚々としてる。
しかも外は、風が冷たいとはいえ、よく晴れた気持ちのいい日なのです。

こんな日に、こんな薄暗い部屋の中で、暖房までつけて、半分寝たような感じでだらだらテレビ~~~???
……って、反射的に感じた。


私はもともとわりと絡みたがりなので、
同じ空間にいるのに別々のことをしてるのが苦手。
顔見て話しようよ、ちゃんといるものとして相手を扱おうよ、って感じてしまう。
それで、以前は何度も、「どうして無視するの?!」って悲しい気持ちになったものです。


今も、反射的にそう感じてしまいそうになる。


でも、そういう時にふと思い出すことがある。


ビオダンサでよくやる、「歩く」エクササイズ。
ひとりで歩くこともあれば、人と一緒に歩くこともある。

「歩く」というのは、シンプルなようでいて、とても奥深い。なぜなら、そこには、その人の生きる姿勢が表れてくるから。

だから、ひとりで歩く時、それは「人生をどのように歩んでいるか」を、
2人組で歩く時は、「人とどんな関係性を持つか」を、
それぞれ反映していたりする。


2人組で歩く時は、何度も交替しながら、いろんな人と出会って、ひとときを共に歩きます。
出会う人ごとに、エネルギーが違う。同じ人でも、時が変われば様子も変わる。
その出会いは毎回新鮮で、毎回、毎瞬、相手を感じ取りながらやっていきます。


私は2001年にビオダンサを始めたので、これまで何回このエクササイズをやったことでしょう。
何十回、では済まず、何百回、だと思います。
それでも、飽きることがありません。毎回新鮮で、毎回ほんとうに興味深いものです。
なぜなら、自分自身が毎回毎瞬違うものだし、相手も毎回毎瞬違うものだからです。


その時に大事なのは、感じること。感じ取ること。
自分のこと、かかっている音楽はもちろん、2人組になるなら、一緒に歩く相手のこと。

せっかく相手がいるのに、ひとりよがりな歩き方をしてしまったらもったいない。それでは「共にいる」ことにならない。
たとえば、自分がすごく元気で楽しい気分だったとして、もし出会った相手がすごく静かで動きも控えめだったとしたら、
自分の元気さ楽しさを押し付けるのではなく、相手のことを感じて、トーンを折衷していく。

とはいっても、「自分を殺して相手に合わせる」のではないのです。
ただ、「どうしたら一緒に心地よくいられるか」を探っていく。


合格不合格があるわけではないので、ただただ、自分の体験が残っていきます。
(やってみてどんななのかは、人によっても場合によっても違うので、ぜひ体験してみることをお勧めします!)


そして、そんな「体験」の記憶が、生活の中に反映されてくることがある。


たとえば、今日の私で言ったら、

自分と明らかにトーンの違う夫の存在に対して、
「あ、これは歩くエクササイズと同じだ!」と感じるのです。


自分を殺すのではなく、
でも自分を押し付けるのでもなく、
相手のこともちゃんと感じて、
どうしたら一緒に心地よくあれるかを探る。


「他者を尊重しながら関わる」というのは、言葉ではよく言われることですが、実際にはどういうことなのでしょう。
どういう感覚のことなのでしょう。


いろいろな答え方があると思います。

私にとって、答え方のひとつは、「ビオダンサでペアで歩く時みたいな感じ!」です。



……今日のことで言えば、

外からハーハー言いながら元気に帰って来た私は、
スウェット姿でだらり~んとしてた夫を見て、「ただいま」とだけ言って、
自分の荷物を整理し、
まだサンバレッスンの記憶が生々しかったので、別の部屋に行ってひとしきり太鼓の練習をして、
やがてそれに疲れ、
ちょっとクールダウンしてから、夫がいる部屋に戻りました。

で、私もだらだらしながら、
夫が見てる番組を何気なく一緒に観始めて、
そのうち面白いところがあって笑ったり、話についていけなくて「え、そもそも何があったの?」って聞いたり、

そんな風にしてるうちに、ふつうに「一緒にいられる」ようになりました。
「トーンがそろった」感じがしました。


あ、これは、「一緒に歩いてる」感じだ、
よしよし、と思いました(^-^)


もしビオダンサをやっていなかったら、どうなってたでしょうか。
たぶん、安直に「こーーんないいお天気なのに、なんでこんな薄暗い部屋でだらだらしてるの?!」って、
口でずけずけ言ってるか、言わずにぐっとこらえつつも胸の内でくすぶって、けっきょく後でドーンと爆発するか、していたかもしれません。

夫には夫のペースがあり、自己調節があって、
矯正しなければいけないところなど何もないのに。

自分の価値観やムードを押し付けてしまっていた可能性は、大です(汗)


こういう時は特に、ビオダンサをやっててよかったなーと、心から感じます。

「自分が自分が」になるのではなく、
抑圧的にがまんするのでもなく、
時と状況に応じて、音楽に合わせてダンスを踊るように、心地よく生きていく方法。自分の命も他者の命も、大切にしながら生きていく方法。
それを、教えてもらったから。
ひさびさに歯医者に行った。
恐怖を乗り越え(大げさ……とも言い切れないんだなぁ、これが)。

おとといくらいから鈍く痛み出したのは、数年前に奥歯を一本抜いたがために、じわじわ出てきてた親知らず。

奥歯を抜いたのもけっこうショックだったので(痛みがひどくて、レントゲンで見たら根が粉々になってた)、「やった~、代わりの歯が仕込まれてた!」って嬉しかった。

そしたら、出てきた親知らずはちょっと向きが変だったりしたこともあって、磨きにくく、そこから虫歯になったっぽかった。

それに気づいたときの、目の前が真っ暗になった感じといったら。
ああ、私はまた、無垢できれいだったものを、自分の至らなさでダメにしてしまった、って落ち込んだ。
ほんとは歯医者にだって行かずに、無視しちゃいたかったくらい。

でも、ここで向き合わずにいつ向き合う、と思って、
意志の力を総動員して、電話をかけたのさ。

子どもたちの係りつけで、とっても信頼できる歯医者さん。やたらに「治療」しないのです。それよりも、「なぜ虫歯になったのか?」「本質的にどうしていきたいか?」を大事にしてくれる。ホリスティックな歯医者さん。

んでいろいろ気づいた。

<気づきその①>
生老病死って、人はけっして避けて通ることができない。生まれたら人は必ず死ぬし、そこに向かっていく過程で、必ず衰えていく。

虫歯ゼロでも、人はいつか必ず死ぬ。
どんなに美しいままでいたくても、
どんなに健やかでいたくても、
どんなに老いを先延ばしにすることができたとしても、
どこからか必ず下降線が始まり、美しさも健やかさも、少しずつ失われていく。

歯がなくなっていき、
髪が薄くなり、
白髪になり、
肌がシミとシワだらけになり、
関節が痛んだり、
内臓の働きが悪くなったり、
病気持ちになったり、
目が見えなくなったり、
声がガサガサになったりする。

もしそういうことが「不幸」なのだとしたら、
人はみな、「不幸」で終わるようになっている。

般若心経の一部を思い出した。

「不生不滅 不垢不浄 不増不減」

生まれるものもなく、消え去るものもなく、
穢れもなく、清らかさもなく、
増えることもなく、減ることもない。

美しいも醜いもなく、
良いも悪いもなく、
健康も不健康もない。

すごい。一気に垂直に次元が飛び上がる出口だ。

ただ虫歯になっただけで、世界が足元から崩れ落ちるような気分を味わったんだけど、
それは、寄って立ってた世界が、「美しさ、健やかさ」を良しとする世界だったからなんだ。

美しいことも健やかであることも、確かにすばらしく良いことなんだけれど、
それだけが唯一の基準になってしまっていたら、「ただある幸せを感じられない」状態と、紙一重なんだなぁ。

よく「感謝できることを見つけるといい」とか「理由のある幸せは、はかない」って言ったりするのは、
「幸せ」に根拠があると、そのすぐ裏に「失う不幸せ」があるからなんだなぁ。

うわー。
虫歯よ。気づかせてくれてありがとう。やたらめったら「感謝」ネタを探すのは無理がある、って感じたこともあったけど、素直にそんな気持ちになったよ。

虫歯はあるけど、
ゆくゆくは、歯をまた失うかもしれないけれど、
それと引き換えにして余りあることを教えてもらった。


<気づきその②>
私は、虫歯に「なってしまった」のではなくて、せっせと餌をやって、虫歯を「育てた」んだな。
虫歯菌ちゃんが大好きな環境を作って。

命ってなんだろう、と思う。
命は大事。それなら、虫歯菌だって、命じゃないか。と、ふと感じた。

歯医者さんと一緒に、今後どうしていこうか、って考えながら、「……何だかんだいって、私は虫歯に自分で餌やって育てたんだなーと思いました」って言ったら、
先生、「うん、それもそうだけど、自分だってそこに悦びはあったと思うんだよね」っておっしゃった。

なんだか、その一言に、ガツーンとやられた。

それまで、「いっときの快楽に負けて甘いものを食べて、虫歯菌に栄養を与えてしまったダメな自分」ってイメージを持っていたんだけれど、

アタマの中に、「わーい」って喜んでる虫歯菌と、同じく「わーい」って喜んでる自分の像が浮かんで、
なんだかおかしいような切ないような、
なーんだ、われわれ、悦びを共有した仲間なんじゃん、って不思議ないとおしさを感じてしまった。


……てなことにガツンガツンと気づかされた一日でした!
ものごと、思い通りにならなくなったからこそ、学べることがある。

生きるってどういうことだろう。
老いるって。
病むって。
死ぬって。

ひとつひとつ、こうして、出会っていくんだろうなぁ。

お釈迦様だって、既存の発想からは答えが見つからないから、出家されたんだものね。

美しさも健やかさも、私にとってはやっぱり大切なことだけれど、
その向こうに、さらにもっと奥深いものがあるんだなぁ。