9月初めの日曜日、渋谷区郷土博物館にいた。

 

 

 

 

なぜそこに行ったのかというと、さらに遡ること8月下旬、

実家の法事の時に祖父から聞いた話から始まる。(祖父の断片的な記憶の中での話のため誤りもあるかもしれません)

 

 

 

 

祖父は戦時中、渋谷の鶯谷(台東区の鶯谷ではない)にあった工場に働きに来ていたそう。

家は栃木なのに、なんで渋谷に働きに??と聞いたらその当時は徴兵制があり、それを免れるために働きに出ていたとのこと。

 

 

 

 

鶯谷から目と鼻の先にある代官山はよく行くし、逆側の並木橋方面にはいつもお世話になっているJ○Aの施設もあり、自分にとってはとても関係の深い場所ということもあり、当時のことがすごく気になりいろいろ質問し、そしてたくさん教えてもらうことができた。

 

 

 

 

 

工場では飛行機の部品の一部を作っていた

 

工場の裏に山本大蔵大臣の家がありとても広い敷地だった

 

その敷地には大きなシェパードがいて入ると追い掛け回された

 

相当な食糧難だった

 

食べる物がなく、週末実家に帰り野菜を採りに帰っていた

 

栄養が採れず疫病が流行っていた

 

○○という虫が病気の人にたかっていた

 

焼夷弾がすぐ裏の寮に落ちた

 

周りはあちこちで火災が起き、その明るさで夜でも新聞が見れるくらいだった

 

 

 

 

なんで?とか、

どうして??とかこちらが聞くと懐かしそうに話してくれた。

 

当時は現代では想像がつかないくらいの食糧難で、本当に生きるためどうしようもなくなった時は近くの畑の野菜を勝手にとったりしていたそう。

 

 

 

 

その中で一番印象的だった話。

 

 

その当時、一番つらかったのが、大豆を粉にしたもの、それに砂糖を入れればきな粉だけどさあ、砂糖なんてもちろんないし、そんなんじゃなくて食用とは程遠い、何にも使えないような大豆の粉を湯呑み茶碗に1杯。これをお湯で溶いたもので一週間、もたせたこと。

 

本当に本当につらかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

戦争が終わってから、働いていた渋谷の鶯谷へは行ってみたりしたの?と聞くと、

 

 

何回か行ってみようかと思ったことはあったけど、結局行かなかったなあ。と、寂しい顔で答えた。

 

 

当時を思い出すのが辛いんだろうな、思い出したくない過去なんだろうなと思った。

そして同時に、戦争のことを知る人もだんだん少なくなってきてるだろうし、こういう生々しい話を直接聞けてありがたいと思った。

 

 

 

 

 

 

この話を聞いてもっと詳しく当時を知りたいと思い、冒頭の渋谷区郷土博物館を訪れたのである。

 

 

 

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場所は渋谷というか広尾というか青山というか国学院大学のそば。注意深く歩いていないと通り過ぎてしまうような建物。

 

 

 

 

館内は旧石器時代から現代までの渋谷の歴史、文化の移り変わりを当時使用されていた実物や写真で知ることができる。

 

 

残念ながら館内の撮影はNGということで写真はありませんが、驚いたのは江戸時代から明治時代まで農業が盛んに行われ、水田や牧場があったそう。渋谷産の米、牛乳.... 今から考えるとすごいですよね。

 

 

 

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唯一撮影可だったハチ公&昔の渋谷駅。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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博物館を出て、祖父が「工場で作った部品を芝の工場に運んでいた」と言っていたのを思い出した。

足は既に動きだし、当時と同じように歩いてみたくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

並木橋の交差点まで移動し、ここから港区の芝を目指した。

もちろん、同時どの道を通ったのかもわからないし、おじいちゃんはこんな道を通っていたのかな、とか想像しながら歩いた。

 

 

 

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前に見える駒沢通りを越えて青山方面に進む。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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閑静な住宅街を抜けて外苑西通りを越える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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この辺りは大使館が多く、交差点ごとに警察官が立っていて物々しい雰囲気。もちろん外国の方も多かったのだが、陽気に歩く姿を見てこれが日本なのかなと、自分の心の奥に何かを感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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東京の街は外見は華やかだが、内の方はゆったり穏やか。少し遠くに見える六本木のビルがそうさせるのだろうか。

 

 

 

電柱の看板で確認した情報だが、これまでのルートは

 

西麻布→元麻布→南麻布

 

といった感じ。

 

 

 

 

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しかし東京は坂が多い。

 

上ったり下ったり、地形は当時と変わらないだろうから重いものを運んでいたなら相当大変だったに違いない。

 

 

 

 

 

 

 

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右に見える首都高は2号線。とするともう三田あたりなので芝まであと少し。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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大きい道路を渡り細い道を進むと、東京タワーがひょっこり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ぶつかった大きい道は国道1号線のよう。ゴールはもうすぐ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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国道1号線から一本入った旧道沿いに古い建物の酒屋さんがあった。

当時もあったのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

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祖父との会話で慶応大学の前を通っていたと言っていたいたのでこの辺を通ったに違いない。

 

 

 

 

 

 

 

 

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地図を見るにこのT字路の奥側が芝。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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横断歩道を渡り直進するとその先は低い建物が密集する飲み屋街。こんなところにこんな場所があったとは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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もちろんだが、当時あった工場はあるわけもなく、古い町並みと区画整理され新たに立ったマンションとが共存する街となっていた。

 

そしてこの芝税務署をもって、当時を想う旅の終了。

 

 

 

 

その当時からだいぶ変わってしまっていて、今本人が歩いてみてもたぶんわからなくなっているだろう。

 

ただ、変わらないものも少なからずあり、お寺や学校は当時の名のままこれからも残っていくだろう。

 

様々な理由で変化が進むなか、後世に残し受け繋いでいく大切さを学んだ気がした。

 

 

そして今、ある国によって「戦争」という事柄が近くに迫ってきている現状に言葉では言い表せない気持ちになる。

 

戦争を経験している方々は二度と同じ思いはしたくないと思っているはず。ならば私の思いも同じ。

 

 

これからも世界が平和でありますように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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帰り道の夕日。

 

 

空は当時と変わらないんだろうなあと思い、いろいろな光景が目の前に浮かんできた。