最近、手汗を書いてしまう。

黒豹です。

ボクは残念ながら結婚していないので

結婚の幸せを想像でしか味わえませんが

Facebookでこんな話を紹介してもらい

是非皆さんにもお伝えしたいと思いまして

ご紹介します。

簡単に説明すると

死を目前にした妻と、闘病生活を通じて

得た真の夫婦の意味。

その辺りが題材になっております。

是非ご覧ください。


山田雅美様、ご冥福を祈ります。


下記転載させて頂きました。(本家は http://720.jp/kojyo/)
※もし問題がある場合は下記転載は削除致します。


妻が亡くなるまでの全てと、その後の僕の全て
平成23年10月3日、僕は妻を失った。
新婚一年、闘病生活たった三ヵ月弱。命日は誕生日の翌日という、いまどきテレビドラマでも敬遠されそうな出来すぎた設定だった。
診断

7月3日、初めての結婚記念日の十日前の夜、妻は血痰を吐いた。週明けの5日に病院に行ったところ、肺癌の疑いということですぐに大学病院に紹介状が書かれ、精密検査に入った。
二週間に及ぶ検査の末、医者の診断結果は、他臓器への転移はまだ見られないものの、かなり進行した肺癌。他の病院だと恐らく手術適用にならないが、この病院であれば切れるから切りましょうとのことだった。
妻は当然ながら強度の失意に見舞われたが、手術できるという唯一の希望にすがることで自分を保っていた。僕にできることは、妻のそばにいることだけだった。結婚記念日には、ささやかながらお祝いをしてお酒も飲んだ。
これは僕も後で知ったことだが、正確には妻は手術できたというよりは、手術しないとすぐにでも気管支に食い込んだ癌細胞が崩れて大喀血し、命に関わる状態だったらしい。
手術

7月28日に大学病院に入院し、翌日手術となった。
実際開いてみないとどの程度周りに転移があるかわからないため、手術は三パターン想定されていた。右肺の一部切除で済むパターン、右肺を全て取り除くパターン、右肺全てと気管支を取り除くパターン。一つ目は肺機能の四割減。二つ目と三つ目は六割減とのことだった。五割じゃないのは、左肺は心臓がある分、右肺よりも小さいからだ。
結果は二つ目。手術は右肺全摘出という大ががりなものだったにも関わらず輸血も不要で無事成功したので、これで少なくとも一年くらいは余裕が出来るだろうと、医師も含め皆思っていた。
退院

手術後は痛みがありつつも少しずつ歩く練習をしたりしていた。
実際8月8日には退院できた。厳しい神経痛と縫合部からの浸み出しで連日通院しながらも、本当に少しずつではあったが落ち着きを取り戻しつつあった。
痛みで仰向けになれない状態だったので、床に座布団を敷いて座ってベッドのへりに突っ伏す形で寝ていて、一時間くらいしか連続で寝られないようだった。そこで大きいマイクロビーズのクッションを買ったら抱きかかえる形で三時間程度眠れるようになり、随分楽になったようだった。
ご飯は全部僕が作っていた。脂肪制限がかかっていたので、よく湯豆腐を作った。簡単でおいしかった。
妻は痛みのストレスで、僕は手が足りないストレスで喧嘩をしたりもしたが、よく話し合って解決した。二人で一緒に家にいられることは素直に嬉しかったし、これから一緒に長い闘病生活を送ることを考えれば、喧嘩も有意義なことだと思っていた。二か月後に死んでしまうなんてわかっていたら、絶対に喧嘩なんかしなかった。
退院から一週間ほどすると、一日のうち一~二時間くらいは痛みが無い時間がある程度までは回復してきて、調子がいい時はノンアルコールビールを少し飲んだりできるまでになっていたので、そしてそろそろお見舞いも来てもらおうかと話していた。
腸閉塞

8月19日の早朝、突然妻が激しい腹痛を訴えたので急いで病院に連れて行った。最初は所見からも癌とは全然関係無い盲腸ではないかということで笑っていたのだが、CTを撮ってみると小腸の腸閉塞とのことで緊急入院となった。
翌日からはイレウスチューブという鼻から2メートルくらいある管を腸まで通し、一週間ほど内容物を抜く治療が行われた。慣れると気にならなくなって普通に話したりできるということだったが、妻には合わなかったらしく常に吐き気と闘っていた。
この治療は一週間が限度であるが改善の兆しがみられないので、一週間を待たず手術で治してしまいましょうとのことだった。腹膜鏡での手術なので傷も小さいし、規模としては盲腸くらいとのこと。チューブとの相性が悪かったこともあり、これは二つ返事で了承した。
二度目の手術

8月25日、手術となった。
術後の医師の話では、腸重積という腸が腸に入り込んでしまうような状態になってしまっていたらしい。そして大人が腸重積になる場合は腸に何か大きなものがある場合が多いので、探してみたところ小腸に一円玉大の腫瘍が見つかったのでここも切除したとのこと。肺癌で小腸に転移ということは考えづらいが、詳細は病理検査を待たなくてはならない。わからないことを不安がっても仕方ないのでとりあえずは手術の成功を喜びつつも、もしかしたら完治はしないのかもしれないと考え始めた。
三度目の手術

その後の容体はあまり良くなく、高熱や炎症を薬で抑えていたが、腹膜炎が起きている可能性があるということで、9月1日の夜、緊急で再手術になってしまった。今回は15センチくらい開かなくてはいけないらしい。
五時間に及ぶ手術後、医師の話では前回の縫合不全が原因で腹膜炎を起こしていたとのこと。これは縫合し直してこちらは問題ないだろうとのことだった。せっかく大きく開けたので全体を見てみたところ、もっと胃に近い腸間膜という部分にゴルフボール大の大きな腫瘍が見つかり、ここも切除していたので時間がかかったらしい。これもはっきりしたことは病理検査を待たないと何とも言えないが、場所的に原発とは思えないので転移であろうとのことだった。7月の検査の時点では異常は無かったはずなので、転移だった場合はもしかしたらものすごく進行が早いのかもしれないと伝えられた。
この頃になってやっと、もしかしたら残された時間は思っているよりもずっと少ないのかもしれないと考え始めた。
余命

その後も痛みと闘いつつ、徐々に腸の状態が落ち着き始めた9月7日、摘出した右肺の病理検査の結果が出た。
妻の肺癌は肺癌のなかでも0.1%程度しか見られない、多形癌という種類だとわかった。多形癌は進行が早く、転移が多く、抗癌剤が効きにくいという、最悪の部類の癌。年間四百件も肺癌の手術をしているこの病院でも完治の例は無く、一番早い例で五ヶ月、かなり抗癌剤が効いた例でも二年とのことだった。
僕は妻が癌だとわかってから初めて、声を上げて泣いた。
そして僕の考えはいかに妻に有意義な余生を過ごさせられるかということにシフトした。
ホスピス

ホスピスと呼ばれる病院がある。通常の病院は治療を目的とするものであるが、ホスピスは違う。余命宣告を受けた人が、苦痛を伴う治療を中止し、余生を有意義に過ごすための病院だ。そこでは食事や面会はもちろんのこと、喫煙やアルコールさえ自由な場合が多い。
もちろん自宅に連れて帰ってあげるのが一番だったが、この頃は腸閉塞の経過が思わしくなく、絶食状態で点滴が不可欠だったので、それならばせめてホスピスにと考えた。どこのホスピスも病床待ちの状態なので、早めに動く必要があった。
ホスピスへの入院は、本人への余命の告知が必須条件だったので、出来るだけショックが少なく伝える方法を考えていた。このころの妻は一日の八割を痛みと戦って過ごしていたので、まずは今の病院のまま、積極的な治療より苦痛を和らげる処置を優先させるよう、緩和ケアチームの依頼をした。その日は土曜日だったので、週明けの月曜から早速チームが来てくれるとのことで、僕は少し安心していた。
だが、結局緩和ケアチームのお世話になることは無かった。
急変

緩和ケアチームの依頼をした翌日の9月10日、残る左肺が急に肺炎を起こし、妻は呼吸不全に陥った。そこで僕は医師に重大な選択を迫られた。
呼吸を人工呼吸器の管理下としないと今晩も持たないかもしれないが、管理下としてもそれから抜け出せるかどうかはわからない。というより抜け出せない確率の方が高い。そして呼吸器管理下は全身麻酔で意識を失わせる必要がある。
つまり、意識があって会話ができる代わりにこのまま苦痛と共に数時間生きさせるか、二度と会話できないかもしれない代わりに今すぐ苦痛から解放するか。
この場に妻の両親がいなかったこともあって僕は悩みに悩んだが、結局は周りのエゴより妻を苦痛から解放することを優先させて、僕の一存で後者を選択した。
その後の最後になるかもしれない会話では、妻に前向きに眠ってもらうためにちょっと麻酔をかけて処置をするということで皆で話を合わせて、安心させて送り出すはずだったが、結局僕は耐え切れずに妻にすがって号泣してしまい、妻を不安にさせてしまった。妻は最後まで僕の手を強く握っていた。
静寂

それから今までとは違う、奇妙に静かな毎日が始まった。入院してからは苦痛に歪んだ顔しか見られなかった妻が、穏やかに眠っている。眉間に深く刻まれていた皺も、痛みで常に体中を濡らしていた汗も無かった。
僕は今までしてあげられなかった身の回りのことをゆっくりと時間をかけて丁寧にやった。体を拭いたりとか、髪や眉毛や爪の手入れとか、そういうことだ。
今までは痛みで体に触れることすら出来なかったので、僕はここぞとばかりに頭を撫で、顔に触れ、キスをし、手に顔を埋めて眠った。
不思議なことにこの日々を僕は愛おしく感じた。
忘却

それから一週間あまり過ぎた9月19日、医師から意外な言葉を聞いた。
「明日から人工呼吸器を外すトライを始めましょう。 」
人工呼吸器を入れてからの治療は予想以上の効果を上げ、肺の能力はかなり回復していたのだった。そしてその言葉通り、翌々日の21日には人工呼吸器は外された。
そこには目を開けた妻がいた。興奮気味に駆け寄り話しかけた僕への妻の最初の言葉はなかなかに衝撃的だった。
「あなたは誰?」
再会

医師の説明によると、これはせん妄状態といい、長期間鎮静していたことによる副作用で、時間とともに回復するから心配ないとのことだった。
それから僕らはゆっくりと時間をかけて、もう一度出会い、愛し合い、結婚した。それは僕にとっても幸せな時間だった。
妻は僕との記憶は戻ったものの、現実感は無いようで「この世界はおかしい」などと言っている。幻覚・幻聴もあるようだ。気が付いたら知らないベッドで機械に囲まれて縛られているのだから当然だと思えた。
よほど苦しいらしく、もう殺してほしいとも言われた。僕は「良くなっているのに殺せない。もう良くならないときは僕がきっと殺してあげる。」と約束した。妻はそれで納得したようだった。
僕はその朝人工呼吸器を外すという連絡で仕事を途中で放り出して来たこともあり、人工呼吸器が外れたという安心感も手伝って、引き止める妻を説得して家に帰ってしまった。この判断は多分一生後悔し続けると思う。それでも妻は最後までいかに僕を愛しているかを一生懸命僕に伝え続けてくれた。
再び静寂

翌22日、今日はゆっくり話をしようと仕事を全て片づけて病院に向っていた12時前、僕の携帯電話が鳴った。妻の呼吸状態が悪化したため、本人の希望もあってこれから再び人工呼吸器管理下に入れるという連絡だった。10分後病院に駆けつけたときには既に妻の意識は無かった。僕は呆然とした。
しかし、医師の説明は思った以上に前向きで、もう少し肺の訓練をすればまたトライできるし、管理下を抜けられるほどまで改善しないとしても気管切開すれば意識を戻すこともできる。その場合は話すことは出来ないということだったが、そんなことはもうどうでも良かった。また、妻と意思疎通ができるならば。
そして、また静かな日々が再開した。
覚悟

それから約一週間後の9月28日、妻に異常が見つかった。血中の白血球が急激に上昇していた。いろいろと原因を潰していったが、骨髄に転移している可能性が高いとのことだった。そしてその数日後には、肝機能と腎機能も低下してきた。妻の癌は、信じられないスピードで成長していた。
そして遂に医師から覚悟しておくように伝えられた。僕は、今後容体が急変した時に延命および蘇生をしないことを、誰にも相談せず決めた。
僕が、きっと殺してあげる。
浸潤

それからは日々状況が悪くなっていった。
連日体温は39度を超え、血圧も高く、黄疸が出て、尿が減った。超音波検査ではお腹の中に多数の腫瘍が見つかり、腸閉塞の術創も良くなる気配もなく、左の二の腕には原因不明のしこりもできた。
もうここからは絶対に苦痛を感じさせたくなかったので、少しでも体動があったら鎮静剤を増やすようにお願いした。
僕と家族は病院の近くのホテルを取り、24時間体制で妻が衰弱していく様子を見守っていた。
誕生日

誕生日前日の10月1日、ICUの看護師達がお祝いをしてくれるというので、姉に頼んで家から衣装やプレゼントや写真を持って来てもらった。誕生日ケーキも結婚式でもお願いしたパティシエの知人に無理を言って用意してもらうことにした。
この時点で皆体力的に限界だったので、少しホテルで仮眠を取ることにした。いざというときでも30分以上は時間的余裕があるだろうとのことだったから十分に間に合う。
そして明けて誕生日当日の10月2日朝2時。携帯が鳴った。血圧が下がり始めているという連絡だった。僕は酷く狼狽しながら病院まで走った。病床に着くと、昨日までは100/50くらいで安定していた血圧が71/36まで下がっていた。その後、朝までかけてゆっくりと50/20まで下がっていったが、そこで一度止まった。
正直そんな気分ではなかったが、やらなければ後悔する気がしたので、11時から家族と看護師でささやかなパーティーをした。着物を着せる予定が、体の上から掛けるだけになってしまったが、ケーキもプレゼントもバースデーカードもある、立派なパーティーだった。束の間、家族に笑顔が戻った。
その後もゆっくりと血圧は下がっていったが、14時に44/19まで下がったのを底に折り返し、21時には64/30まで回復した。驚くことに、ここ数日続いていた39度台の熱が急に下がり、36度になった。夜になると皆を寝かせてくれようとしているようだった。
僕もストレスからか頭痛と胃痛が酷かったので、少しホテルに戻って仮眠を取ることにした。
停止

10月3日朝4時に携帯が鳴った。今度は狼狽せずに済んだので、素早くしっかりと準備をして病院に急ぎ、15分後には病床にいた。
血圧は45/21。妻は気持ちよさそうに眠っていた。
それから妻は徐々に全身の機能を失っていき、6時5分に遂に心臓が停止した。その後また動き出し、6時40分に再び停止し、もう一度動き出して、6時55分に停止した後はもう動くことは無かった。その間苦しそうにすることもなく、静かに、穏やかに妻は死んでいった。延命・蘇生の拒否をしたおかげでスタッフが入ってくることもなく、僕と家族はその全てをゆっくりと看取ることができた。
妻が熱望していた帰宅は、46日ぶりにやっと叶うことになった。
後悔

妻の死後、妻の日記を読んだり、妻の残した写真を見て自分のことをどれだけ愛していたかを知り、それに十分に報いていなかったことを悔やんだ。そして一つ後悔をすると、次々と後悔することが見つかり、眠れなくなった。
もっと早く緩和ケアに移行してやれていれば。
もっと優しくしてやれていれば。
もっと早く病院に連れて行っていれば。
もっと早く子供を作っていれば。
もっと早く結婚していれば。
もっと早く出会っていれば。
妻のことを忘れてはいけない。もちろん忘れたくはない。でも入院してからのことに向かい合うと、やっぱり後悔の螺旋に落ちて上がって来れなくなる。
虚無

今までどんなに辛い時期でも死ぬことなんて一回も考えたことなかったのに、もはや妻のいない世界にこれ以上残る意味は無いと感じ、死ぬことばかりを考えた。でも皆に迷惑をかけたり、なにより父や祖母や義父母に喪失感の連鎖を残すのは絶対に嫌だったので、とりあえず自殺は却下したものの今すぐこの世界から消えてしまうことが僕の唯一の望みだった。
ロールプレイングゲームをクリアして王様に話しかけたのに、ゲームが終わらない。もう手に入れるべき宝も倒すべき敵もいないのに。もう電源を切りたかった。
生への執着は全ての根本で、これが無くなってしまうと全ての欲求や執着は無くなってしまう。仕事や食事や遊びはもちろん、妻の形見や法要のことさえ、この世界に見切りをつけた時点で重要に感じなくなってしまった。
それでも僕はどうしていいかわからないまま、全ての判断を保留にして四十九日までぼんやりした日々を過ごした。
キミは私です!

妻は結婚前、僕にこんなメールをくれた。
「好きなだけではありません!キミは私です!」
後でこの意味を聞くと、結婚するということは、ひとつになることなのだと妻は説明した。僕は大いに納得したが、今考えるとこの時点では半分も理解できていなかった。
妻が残してくれたもの

四十九日で青森の実家に帰った夜、小学校来の友人が弔問に来た。僕は今の空虚な気持ちを話したが、彼は僕に、妻が残したものを大切にするべきだ、と言った。そして、「キミは私です!」という言葉が答えだと思う、とも言った。
僕はそれからずっと妻が残したものについて考えていた。それは物質的なものだけではなく、特に人と人の縁や、妻が与えた影響のような形を持たないもののことを考えていた。
ひとつ

そして僕は答えを出した。
妻が残した僕にとって最も重要な、恐らく妻にとっても最も重要だったものとは、僕自身であると。
僕らは考え方、価値観、生き方、その全てに影響を与えあい、既に十分に混じり合っていた。僕らはもう、ひとつで、その裏表だった。妻の言葉の意味をやっと理解できた気がした。
僕は妻を失った訳ではなく、僕(そして妻)の半分を失ったのだ。僕と妻は半分になりながらもひとつとしてここにいる。残りの半分も消すことは、妻のことももう一度殺すことになってしまう。そんなことはできない。
いつも空から見守っているだとか、心の中にいるだとか遺志を継ぐだとか、そんなことでは納得できなかった僕の厄介なリアリズムを、いとも簡単に丸め込む説得力がそこにはあった。
これから

僕は再び生きる意味をみつけた。生への執着を取り戻した。あとは簡単だ。今までどおり二人で格好よく生きていけばいいだけだ。
もちろんまだ悲しみは癒えていないし、喪失感もある。涙だって毎日流している。でも今までとは全然違う。妻と一緒ならば乗りきれる。僕らにはまだ未来があるから。
現にこうして過去と正面から向かい合うことができた。これは大きな一歩だ。
皆さん、妻はここにいます。
僕は、雅美です。
平成23年11月22日     山田 修一
皆に感謝を。





この文章は本来僕らの知人のために書いたものですが、そうではないあなたにもパートナーをより愛すきっかけとなれば幸いです。
平成23年11月24日追記