金大中元大統領のほかにもう1人…「韓国生まれの受賞者」2人記録
2014年10月12日11時23分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]


今年のノーベル賞受賞者が相次いで発表される中、なぜ韓国人受賞者はいないのかとの自省の声が出ている。2000年に金大中(キム・デジュン)元大統領がノーベル平和賞を受賞したが、科学賞を受賞した韓国人はまだいない。だが、ノーベル委員会で「韓国生まれ」に分類される化学賞受賞者がいる。1987年に受賞したノルウェー系のチャールズ・ペダーセンだ。
ノーベル委員会がペダーセンを「韓国生まれ」と分類するのは、ノーベル賞受賞者の国籍を突き詰めるのが難しいためだ。1901年に初めてのノーベル賞が授与されてから、▽戦争や独立などでポーランド、ベラルーシ、ソ連、ロシアのように同じ地域が他の国に変わった場合▽出生地と国籍が異なる場合▽二重国籍所持者――など、国籍問題は悩みの種だ。そこでノーベル委員会は受賞者の出身地を明らかにしている。
ペダーセンは旧韓末の1904年にノルウェー人の父と日本人の母の間に釜山(プサン)で生まれた。海洋エンジニアだった彼の父ブレーデ・ペーデシェンは蒸気船に乗って極東にやってきて当時英国が掌握していた大韓帝国税関に就職した。その後平安道(ピョンアンド)の雲山(ウンサン)鉱山が開発されるとそこに向かいゴールドラッシュの隊列に合流した。ペダーセンの母の安井タキノは大豆と蚕糸貿易に従事した家族とともに朝鮮に移住しペダーセンの父と会って結婚した。
89年に死去したペダーセンがノーベル委員会に残した自身の伝記によると、当時雲山鉱山は米国が運営していたにもかかわらず周辺に外国人学校がなかった。ペダーセンは「雲山はシベリアトラが出没し寒い冬にはオオカミが子どもたちを襲った所だった」と回顧した。彼の両親は彼が8歳になった年に長崎にある修道院学校に通わせ、2年後に横浜のセント・ジョセフ・カレッジに転校し中学と高校を卒業する。その後父親の勧めで米国の大学に進学することにし、セント・ジョセフ・カレッジと同じマリア会が運営するオハイオ州デイトンに向かった。化学工学を専攻したペダーセンはマサチューセッツ工科大学で有機化学の修士学位を取った。ペダーセンは「修士過程まで父が送った資金で通った。これからは自分で稼がなければならない」として博士課程に進学せず総合化学会社のデュポンに就職した。ペダーセンは後に博士学位を持たない初のノーベル化学賞受賞者となる。彼は53年に米国籍を取得した。
デュポンのジャクソン研究所で働いた彼は67年に別の実験をしていて偶然に「クラウンエーテル」という新しい有機化合物を発見する。ペダーセンはこの有機化合物が酸素原子1個が炭素原子2個に挟まれている形態で円形に配列されていることからクラウンエーテルという名前を付けたという。特定の原子を錠前に鍵が合うように引き寄せる点からクラウンエーテルは酵素のような他の生化学的物質が複雑に遂行する作業を比較的簡単にまねることができる。そこで科学者はクラウンエーテルの発見に敬服し、体内ナトリウム・カリウム運搬原理などの製薬研究、大気中で放射性ストロンチウムを除去できる環境技術研究などに役立つものと判断した。
ペダーセンは69年にデュポンでの42年間の勤務を終え定年退職したが、彼の研究に基づいて後続研究をしたドナルド・クラム、ジャン・マリー・レーンとともにクラウンエーテルを発見してから20年ぶりの87年にノーベル化学賞を共同受賞した。83歳の高齢にがん闘病で健康が悪化していたが彼はニュージャージーの自宅からスウェーデン・ストックホルムまで飛んで行き賞を受け取った。ペダーセンは受賞の感想として「商業性がないように見える研究に対しても9年間も望む研究をさせてくれたデュポンの経営陣に感謝する」と話した。
ペダーセンの姉は日帝時代の朝鮮に残りスタンダードオイルの済物浦(チェムルポ)事務所で働き64年に死去した。ペダーセンはノーベル賞を受賞してから2年後の89年に死去した。デュポンはペダーセンの業績を賛え、社内の優秀科学者に授与するペダーセン賞を設立した。


【取材日記】ノーベル賞シーズンになると憂鬱なソウル大
2014年10月15日07時49分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]

先週、ソウル大の教授の間で最大の話題になったのはノーベル賞だった。教授に会えば、尋ねもしないノーベル賞の話に向かう。教授は専攻分野に関係なく、一方では恥ずかしさを、もう一方では危機意識を感じていた。特に日本科学者3人のノーベル物理学賞受賞に衝撃を受けていた。
「韓国もある程度成長したと思っていた。ところがノーベル物理学賞のニュースに接すると、両国の科学研究レベルに顕著な差があることを改めて実感する」
工学部のA教授は日本科学者のノーベル賞受賞について、「日本科学のシステムが、教育から研究費支援までどれ一つ欠くことなく充実しているという意味」と解釈した。「ある教授が青色LEDに対する理論を開発した後、その弟子とともに大学で実験に成功し、また、中小企業研究員が商用化に成功した。重要なのは、彼らがノーベル賞を受けた青色LED研究は当時ではあまり知られていない分野だったが、20年間ほど着実に研究できる環境が作られていたということだ」。
B教授は新入生と面談した時のことを語った。幼い頃から科学者を夢見て英才教育の学校を卒業した後、ソウル大に進学した学生だった。この学生は「私は科学に飽きました。科学ではなく他の進路を選びたい」と話したという。B教授は「ノーベル賞は日本のオタクのように研究に没頭する人たちが出てきてこそ可能だ」とし「その学生が科学に対して持つ熱意を、詰め込み式の教育と大学教育が守れないということだ」と述べた。
両教授の言葉には共通点がある。「馴染みがなくとんでもない研究がノーベル賞を作る」「胸中の情熱の火を絶えず守ることができる時、ノーベル賞が出てくる」ということだ。日本のトヨタと中小企業の日亜化学工業が研究を着実に支援しなかったとすれば、2014年ノーベル物理学賞は他の国が受賞していたかもしれない。
しかし韓国の科学政策は違う道を進むようだ。人文学部のC教授は「韓国の政策は、ノーベル賞受賞者を出すといって可能性がある学者に巨額を集める」とし「さらにノーベル賞を受賞できそうな学者を韓国に迎えようという雰囲気もある」と述べた。ノーベル賞という花を咲かせることができる基本の土壌を作るより、苗木を移して植えるということだ。ノーベル賞はその国の科学が世界的なレベルに発展したという証拠にすぎず、目標にはならない。一つの分野に没頭する研究者が増え、その研究者の熱意を後押しするシステムを構築するのがもっと重要だ。「科学に飽きた」という学生の心がまた科学に向かう時、私たちはノーベル賞を話すことができる。

イ・サンファ社会部門記者