1991年4月1日に
「石原敬士
放送本部報道局アナウンス部勤務(仮配属)を命ず」
という辞令を当時のテレビ新広島岩田社長から頂いてから30年が経ちました。
つまり、アナウンサー生活30年ということです。
長かったような、あっという間のような、どちらとも思える30年です。
スポーツアナウンサーを志してテレビ新広島に入社。
1年目は夜勤と土日の勤務の中でひたすらニュースを読んでいました。
その1年目の10月から3年ほど、夕方ニュースの中のコーナーナレーションに抜擢していただきました。
その一方で、当時テレビ新広島で放送していた深夜番組の中で流れた、渡し船の兄弟船長のドキュメンタリーナレーションでFNSアナウンス大賞新人奨励賞を受賞することもできました。(ちなみにその年の新人賞は中村江里子さんでした)
入社2年目にして、初めて実況したのは、ドッジボールでした。
テレビ新広島としては初めて扱う種目を入社2年目の若造が担当し、それも初実況とは思い切ったことをしたものだと、今振り返ると思います。
でも、それがきっかけになって、ハンドボールを好きになったのですが…。
3年目。念願かなってプロ野球ニュースデビューを果たしました。
93年のJレーグ開幕の前から、サンフレッチェ広島の取材に携わり、今でも親交のある森保一さんなどに多くのことを教えていただきました。
一方で、大事にしていたのは、「ニュース読み」でした。
1997年ごろからは金曜日のニュースキャスターを務めながら、阪神大震災では、関西テレビの応援で神戸に一週間張り付いたり、鳥取県西部地震、芸予地震、台風などの中継。
何よりも心に残り、いまだに、「あの伝え方でよかったのだろうか」と何度も考える「西鉄バスジャック」。
こういった、突発の事件、事象に向かい合いました。
2005年3月31日でテレビ新広島を退社し、フリーとして新たな一歩を踏み出しました。
それから数えて16年です。
局アナウンサーとしての活動が14年ですので、それを2年も超えました。
これからも私への需要との兼ね合いという面もありますが、大好きなスポーツに丁寧に向かい合って過ごしていきたいと、改めて心に言い聞かせたいと思っています。
間違いなく、30年もアナウンサーを続けてこられたのは、使ってくださる方の存在があってこそ。
それよりも何よりも、私の実況に耳を傾けてくださる皆さんのおかげです。
これからも、よろしくお願いします。
次の目標は、とりあえず、2022年4月1日にアナウンサーでいることです。