「ひでき」の巻 | あさだたかしの『替玉、硬麺で!』

「ひでき」の巻

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平成元年の4月、すっかり日の落ちた

稲築高校の下駄箱で

その男は、いきなり話かけてきた。

「柔道部やろ?練習キツイ?」

私は、突拍子も無い質問に

躊躇いながら「キツイよ」と応えた。

その数日後、柔道部の道場に

その男は居ました。

それが私とヒデキの出会いです。

入部当初は5人居た1年生も

3年生になった頃には

私とヒデキしか残りませんでした。

高校卒業後、ヒデキは

就職の為、上京。

私は博多の専門学校に

2年行きました。

専門学校2年生の時、

就職をどぅするか悩みましたが

ヒデキが東京で働いていたので

私も東京で就職する事にしました。

私は調布市、ヒデキは千葉の市川市、

お互い仕事が忙しく、

中々、会う機会もありませんでした。

私は次第に福岡が恋しくなり、

一年間働いた仕事を辞め、
福岡に帰りました。

私は福岡に帰り、

就職するでもなく、

フラフラしていました。

そんな時、東京のヒデキから

電話がありました。

「オレも仕事辞める事にした。オレ、有名人に成りたいからお前も東京に戻って来い、オレと二人で有名人になろう!」と言われました。

私は、福岡が恋しく、

東京から逃げて来た身。

もぅ東京に戻りたくは

ありませんでした。

私はヒデキを口説きました。

「福岡にも吉本興業があるから、そこに行こう。福岡で経験積んで、それから東京に行こう。」

見事にヒデキを口説き落としました。

ヒデキは3年間働いた

お寿司屋さんを辞め、

筑豊に帰郷しました。

当時、インターネットとかもなく

どうすれば、お笑い芸人に

成れるのかもわかりませんでした。

とりあえず、私達は

吉本興業福岡事務所を

電話帳で調べ、電話しました。

「吉本に入りたいんですけど・・・」

たまたま、事務所に

所長さんが居て、

「お前等、オモロイんか?オモロイなら、今から出てこい。」と言われました。

ネタもありません。

コンビ名もありません。

でも、とにかく「出て来い」

と言われたので行きました。

ドキドキしました。

緊張しながら事務所の

ドアを叩きました。

私達を見た所長さんの第一声は

「何かオモロそうなの来たなぁ」でした。

それから簡単な面接がありました。

「コンビ名は?」

「まだ決めてません。」

「ネタは有んのか?」

「いえ、有りません。」

そぅです、ズブの素人なんです。

私達は何の準備もせず、

福岡吉本の門を叩いていたのです。

今思えば、追い返されても

仕方ない状況でした。

しかし、たまたま所長さんの

御機嫌が良かったのか、

「じゃあ来週の〇曜日に、ちょうどネタ見せがあるから、お前等もネタ作って持って来い。」となりました。

「あとコンビ名も考えんとな、お前、下の名前は?」

「タカシです。」

「タカシな、お前は?」

「ヒデキです。」

「じゃあ、一先ずコンビ名は『タカシ&ヒデキ』でやっとけ」

これが「たかしひでき」誕生の瞬間です。

友達ヒデキが「相方」に

変わった日です。

同期生には、愉快な奴等が

たくさん居ました。

同期と3年間切磋琢磨しました。

3年で福岡吉本を辞めて、

東京に進出しました。

色んな事務所を渡り歩き、

今の浅井企画に至ります。

福岡吉本でデビューして

芸歴16年、紆余曲折ありました。

良い出来事、悔しい出来事

色んな経験をしてきました。

芸歴と共に歳もとりました。

そして、この度、相方のヒデキが

一身上の都合でお笑いを

辞める事になりました。

それにより「たかしひでき」は

8月12日付けで解散となりました。

突然な報告ですいません。

しかし、ヒデキが考え決めた事です。

福岡吉本時代から「たかしひでき」を

応援してくださった方々、

ありがとうございました。

浅井企画の「たかしひでき」を

応援してくださった方々、

ありがとうございました。

これからは私一人で、

お笑い活動を続けて行きます。

どぅ転ぶかわかりませんが

行ける所まで行ってみようと

思っています。

今後もよろしくお願いします。

写メは、高校からの友達

ヒデキと「ごきげんよう」の

セット前で撮りました。

ヒデキ、長いこと、

お疲れさんでした。

オレも頑張るんで、

お前も頑張れよ。

何かオモロいネタ思いついたら

連絡してきてね。