先代への敬意も忘れずに・・・

教育関係者のツイートを見ていると、これまでの取り組みが今の時代に合っていないことへの不満も多く語られている。

 

かく言う私もその一人。

ここ2,3年で教育関係の書籍を100冊近く読んで勉強し、今の時代に求められる人材について知ると、教育のあり方を根本から変えなければならないことは明らかだと分かる。

 

ただ気になるのは、さも”これまでの取り組み”が間違いだったかのように述べている人が多いことだ。

 

確かに、現代の価値観で見れば間違っているだろう。絶対に改善しなければならない。

しかし、だからといってなにもかも間違っていたのかというとそうではない。

 

そのときそのときの時代に求められた人材を育てるため、最善を尽くしていたはずだ。

その中で、先代の教育者達がよりよい教育を求めて研鑽に研鑽を重ねた結果として今の教育へと至っている

 

「その結果として歪みがたくさん生じてるんだから、間違っていたんだろう」と言うかもしれない。それは違う。

 

その結果として社会が十分に成長し、「成熟社会」とまで言われるようになった。

 

つまり、先人達の努力のおかげで、文化的に底辺近くからスタートした日本が、先進国のトップにまで上り詰めることができ、一つのゴールを迎えることができたのである。

 

人生もそうだが、ゴールを迎えればまた次の課題に向けてのスタートを切ることになる。それが現代の教育の歪みの正体だ。


高度経済成長期に、「MADE IN JAPAN」が世界に通じ、誇れるブランドになるよう、国民全員に一律の高度な能力が求められた。

 

自由な発想よりも、仕事に疑いをもたず、「今」よりも「将来」を見据えて不満を漏らさず理不尽に耐え、必死にやり抜く人材、求められる正解に早く辿り着き、かつより効率的により大量にモノを生産できることにつながる人材が必要とされた。(このへんは、百田尚樹さん著『海賊と呼ばれた男』なんかを読むとすごくよく分かる)

 

社会がそのようであれば、現代において必要とされる「多様性」や「個々の自由な発想」「NO RULE」といった概念は逆に不要なる。そんなものを持ち出したら「高性能なモノを迅速に大量生産」するうえで支障が出る。みんなで同一波長で進みたいところにノイズが生じる、といったところか。

 

だから学校では、子どもがそういった「ノイズ」にならず、社会からつまはじきにされないように育てることが「子どものため」だった。

 

そして今、「成熟社会」に辿り着いたことによって、「十分満たされているモノ」は「不要なモノ」となり、「それでは満たせられなかったモノ」が「大切にすべきモノ」に変化してきた。

 

こういう時代背景があって、モノが満たされた社会になったからこそ、モノより意味を重視する社会を迎えることができたのである。

 

ただ声高に「~~~の考え方は間違っている!」と叫ぶのではなく、「確かにかつてはそれで良かった。あなたの言ってることは間違っていない。しかし、今の時代には通していない」というスタンスでいることが大事であると思う。

 

ベテランは若者から感性を学ぶ必要がある。

若者はベテランから不変の思いを学ぶ必要がある。

 

双方に学び合うことでこそ、真に新しい時代に向けた教育が始まると思う。

 

(『これって何教?』なんて皮肉たっぷりのものを掲載している私が言うのもなんなのだが・・・すみません💦)

たかヒーロー - YouTube