シラス国の天(アマ)テラス〜②マッカーサーを180度変えてしまった昭和天皇
以前、別のところで書いた記事ですが、こちらにも転載します。🇯🇵シラス国の天(アマ)テラス〜②マッカーサーを180度変えてしまった昭和天皇🗾世界の歴史の中で、通常、敗戦国の君主は処刑されるか国外亡命が常識でした。終戦直後の昭和20年9月27日。昭和天皇はGHQ最高司令官ダグラス・マッカーサーの元を訪れました。マッカーサーは昭和天皇が命乞いに来たのだと思っていました。ところが、天皇の口から語られた言葉は、「敗戦に至った戦争の、いろいろの責任が追及されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼等には責任はない。私の一身は、どうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい。」というものでした。マッカーサーは後日、この時の事を回想録で次のように記しています。「私は大きい感動にゆすぶられた。この勇気に満ちた態度は私を骨の髄までも揺り動かした。これを聞いて興奮の余り、陛下にキスしようとした位だ。もし国の罪をあがのうことが出来れば進んで絞首台に上がることを申し出るという、この日本の元首に対する占領軍の司令官としての私の尊敬の念は、その後ますます高まるばかりだった。かつて、戦い敗れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例のないことと思う。」終戦直後の日本は食糧事情の悪化に直面しており、昭和20年12月頃、陛下は「多数の餓死者を出すようなことはどうしても自分にはたえがたい」と述べられ、皇室の御物の目録を渡され、「これを代償としてアメリカに渡し、食糧にかえて国民の飢餓を一日でもしのぐようにしたい」と伝えられました。 そこで当時の幣原首相がマッカーサーを訪ね、御物の目録を差し出すと、非常に感動したマッカーサーは、「自分が現在の任務についている以上は、断じて日本の国民の中に餓死者を出すようなことはさせぬ。必ず食糧を本国から移入する方法を講ずる」と請け合ったそうです。当時の農林水産大臣の松村氏は、「これまで責任者の私はもちろん、総理大臣、外務大臣がお百度を踏んで文字どおり一生懸命に懇請したが、けっして承諾の色を見せなかったのに、陛下の国民を思うお心持ち打たれて、即刻、〝絶対に餓死者を出さぬから、陛下も御安心されるように……〟というのだ。それからはどんどんアメリカ本国からの食糧が移入され、日本の食糧危機はようやく解除されたのであった。」と、記しています。当時、天皇制をめぐって米国務省内では議論が続いており、昭和20年10月22日、マッカーサーに対し、天皇に戦争責任があるかどうか証拠を収集せよ、との電報を打たれる事になりました。これに対してマッカーサーは翌21年1月25日、アイゼンハワー陸軍参謀総長に対し、次のような回答の手紙を送ったそうです。「過去10年間、天皇は日本の政治決断に大きく関与した明白な証拠となるものはなかった。天皇は日本国民を統合する象徴である。天皇制を破壊すれば日本も崩壊する。もし天皇を裁けば行政は停止し、ゲリラ戦が各地で起こり共産主義の組織的活動が生まれる。これには100万人の軍隊と数十万人の行政官と戦時補給体制が必要である。」天皇との会見などを通してマッカーサーが抱くに至った天皇へのプラスの認識が、このマッカーサーの判断をもたらしました。これによってアメリカは天皇を戦争犯罪人として訴追する事をやめ、戦後も天皇制が維持されることになったといえます。そのことが戦後の日本の復興と安定に寄与した意義は計り知れません。また、陛下は昭和21年8月より国民を慰め、励ますために全国をご巡幸されました。その行程は8年間で33,000キロ。一日平均200キロの強行軍でした。戦禍で傷ついた国民の心に寄り添い励ましてくれたのです。国民(くにたみ)とともにこころをいためつつ帰りこぬ人をただ待ちに待つ昭和24年に陛下のお詠みになった和歌です。陛下は決して国民を見捨てない。苦しみ、悲しみを共に分かち合ってくれる。そんな君主が世界にいたでしょうか?平成の天皇であった上皇陛下も、いつも被災地を訪れて、膝をつきあわせて慰め、励ましてくれていました。そんな天皇陛下という君主の存在がずっと続いてきた国。それが日本であり、天皇陛下の慈しみの中で、自然と私達が身につけてきたものが和の精神ではないでしょうか。次回は日本の国の始まりについてお伝えします。