最近、といってもここ1年くらいだろうか。

二元論を語る人たちが、目立つようになってきた。
それは昔からありふれたものごとの善し悪しや、賛成・反対、好き・嫌いとか、そういうレベルを超えて、宇宙とかそういう次元の話になっているという印象。

昔からそういう本質的なことは、直感でも理論でもとっくにわかっていた人たちはもちろん一定数いて、でもそれを語ってはいけない風潮みたいなものがあったけれど、これはどうしたことだろう?そういう昔のタブーを超えて、日々のニュースと同列に話題にのぼり、SNSなどでもふつうに投稿される。



私が思うに、今このタイミングは然るべくしてそういう流れになった、ということ。
世の中に必要とされないものは表に出ないように、今こうしてそういう話がふつうに出るということはやっぱり必然性があるということなのだと思う。
世の中の人たちが、限りなく本質的なものを求めているのだ。


それでは人はなぜ、本質に向かうのか?
あるいは向かわざるを得ないのか?


その答えは「二元論の窮屈さと限界」にあると思う。

これまで何世紀もの長きにわたって、文明の中心は西洋にあって、その思想のルーツは二元論にあった。
先にもふれた、ものごとの善悪、光と闇、好き嫌い、勝ち負け、正負、そういう思想のパラダイムのもとに社会システムが成り立ってきたのだから、戦争が起こって当たり前。
戦争というと話しが大きくなるけれど、人間同士のささいなけんか、言い争い、不和、敵対、それらはすべて、小さな戦争だと思う。

そして二元論で成り立つ社会には、いつも矛盾と息苦しさが内包されていた。
なぜならそれは、たとえば何かを「好き」と、何かを「いい」と判断した途端に、それと同時に「嫌い」「ダメ」という、無意識の否定をはらんでいるのだから。


先日、安保法案の賛否が大きく取りざたされ、官邸前のデモもずいぶんと話題になった。
私はあのとき、とても複雑な感情をもった。

必死で声高に反対する人たちは、世界がほんのすこしのさじ加減で姿を変えたとき、いとも簡単に賛成の世界に傾くという当たり前の可能性を、冷静に理解していた人たちはどれくらいいただろうか。
逆もしかり。

また太陽崇拝のキリスト教と月崇拝のイスラムの世界が相容れないように、とても強く妥協を許さない信仰は、何かを強烈に崇拝すると同時に世界をふたつにわかち、暗に何かを強く否定している。
その思考のからくりに気づいている人々が一体どれくらいいるだろう?


要は二元論の住人でいる限り、その幻想に永遠に気づくことはない。

そろそろ目を覚まさなければ。

苦しみの根源は、何かを受け入れられないこととその難しさにある。
でもそもそも否定するという発想がなければ苦しみは生まれない。

二元論から見る「ダメな自分」も、ほんの少し見方を変えれば、素晴らしい自分に変わる。
素晴らしい、が言い過ぎだとしたら少なくとも、目の前の現実から何かヒントを得て前にすすむチャンスを得ることができるはずだ。
そうやって不利な状況さえも、カードをひっくり返すみたいに颯爽と前に進むための道具とする。武器とする。
そう。私たちはいつも試されている。
これはゲームなのだ。


現に自分のことにおきかえてみても、一見ダメな状況から学ぶことはとても多いし、自分にとって都合のよいことばかりが続くと何も考えなくなってしまう。


だから良いも悪いも存在していない。
捉え方を変えれば、両面あって当たり前で、どちらも真実。

今、私たちに必要なのは、その見方の訓練をすること。
そのために体という精巧かつ便利な乗り物があり、感情という優秀なリトマス紙がある。

日々自分に与えられたものを活かし、見方の練習をすることで、根源的な苦しみからは逃れることができるはず。

もっとも日本人は、無宗教と言われているけれど私はその曖昧さ、西洋と東洋がごちゃまぜになっている何でもありの姿勢が、やっぱり世界的に見ても圧倒的に素晴らしいと思っている。
ただそれは恵まれた「天然」であって、なぜそれが素晴らしいのか、ちゃんと考えないと、幸せなだけの人に何も説得力はない。

きっとその二元論をいつか超えていくために、善悪の試練があるのね。


両極を知らなければ、光も闇も経験のなかで熟知した人間でなければ人の心を本当に開かせることはできないように。

日本は和の精神。
そしてそこには、フュージョンという美しき思想がある。
素晴らしい。
この土地にたまたま生まれ育ったという、持って生まれた思考体系。

私は日本が好き。
今年はますます日本が好きになった。

今は昔にくらべて、すべての人をとてもニュートラルに見ている自分がいる。
もともと肩書きにとらわれるタイプではないけれど、そんなのほとんど関係なくて、みんな人間であることに変わりはない。
一人一人が素晴らしく、貴重な存在。


二元論の長い歴史があるだけに、その呪縛から解放されるのは誰にとってもそう簡単ではないと思う。けれども、一人でも多くの人がありのままの自分を認め、他をありのままに受け入れられるようになったらいいなと思う。


どうやら、もうやり直しはきかないらしい。
また地球に生まれ変わることがあれば、別だけどね。
どうせなら楽しく、おもしろおかしく、毎日くだらないことで笑いながら生きていきたい。
まわりの人たちと仲良くね。
自分ごとのように大切に。


私はおろかな部分も多い人間だけれど、それはそれでいいと思ってる。
ただ、人としていい人間になりたい。
でも、いい人間って何だ!?
また疑問がわいてきた、笑。


なんだか久しぶりに真面目なことを考えた夜。

今日はゆっくり休もう。


ではまた!