2ヶ月以上入院していた母親が退院しました。
厳しかった頃の母親との思い出。こういうことを考える年になりました。

「耳が聞こえないから勉強ができないのね、かわいそうね」
「耳が聞こえないから運動ができないのね、かわいそうね」
なんてことは絶対言われるな!そんな情けないことはお母さん許さないよ!と、
社会の障害者に対する偏見に対して反骨精神いっぱいの母親だったように思います。時代も時代で、「障害者=かわいそう、恥ずかしい」という見方がまだ強かった頃だと思います。自分が子どもの頃は、今以上に、手話を使っている人に対する視線がとても冷たい時代でした。

耳が聞こえないということを言い訳にするな!と、
勉強にしても、発音にしても、スポーツにしても、
高校卒業まではとにかく厳しく怖かった記憶しかありません。

「勉強ができなくて困ることはあっても、できて困ることはない」が口癖でした。母親は高卒ですぐ働いているため、学歴偏重の社会にも不満があったというようなことを聞いた記憶があります。小学校時代は、テストでうっかり99点取ろうものなら…「どうしてこんな簡単なことを間違えるの?テストが終わっても2回3回、時間になるまで何度も確認しなさいって言ってるでしょ!」と鉄拳制裁でした。
「お母さん!お姉ちゃんだって100点じゃないよ!なんで?」と言っても、「お姉ちゃんはいいの!」と、鉄拳制裁くらっている弟の自分を見て、姉は震えながら100点以外のテスト用紙はいつも隠していたと言います。まぁ逆の立場なら俺も間違いなく隠していると思う。

また、「生まれつき耳が聞こえないのに発音が上手ですね。どうやって練習したのですか?」とよく聞かれることがあります。自分は物心ついた頃からしゃべっている記憶しかなく、発音練習をした記憶がないのですが、母親が言うには「幼稚園の頃は発音ができるまで、何度も何度も叩いて練習した」とのこと。殴られすぎて記憶がぶっ飛んだのかな?って思うくらい、本当に発音練習の記憶がない。でもこのおかげで相手の言っていることが聞こえなくても、少なくとも、自分の言いたいことを口話で相手に伝えることはできます。これも親のおかげだと思っています。

母校・横浜国立大学の寄宿舎への出発当日、
「お母さんはお姉ちゃんのことはそっちのけで、18年間、心を鬼にして裕士のことだけを必死で育ててきました。もうお母さんは何も言いません。自分の人生、好きなように生きなさい」と送り出されました。
ずっと厳しかった母親ですが、この日はとても寂しそうで、お母さんの背中がとても小さく見えたのを今でも覚えています。

傍から見てもとても厳しい母親だったと思いますが、
大学入学後、寄宿舎で一人暮らしを始めてから一気に体調が悪くなり、
今では、年も取り…性格も丸くなり…背中も丸くなり…身体もあまり動かなくなり、ヘルパーさんによる介護が必要な状況になってしまいました。

会うたびに、どうしても元気だった頃の親と比べてしまうというか、思い出してしまうので、変わり果てた親の姿を見ると、とても悲しくなります。
老いは早かれ遅かれ必ずくるものですが、とても残酷なものです。
そんな母親を見て、僕はどれだけ親孝行ができているのだろうか、と考えてしまいます。そして、僕はあとどれだけ親孝行ができるのだろうか、と。

ソフィアデフリンピックには、
妻、息子、父親、おじさんなど親族が応援に来てくれましたが、母親は体調が悪く、海外渡航ができるような状態ではなかったため、応援に来れませんでした。

4年後のアンカラデフリンピックでは、母親を含め、親族に応援に来てもらえるように。そして表彰台にのぼる自分を見せられるようにしたいと思う。

「孝行のしたい時分に親はなし」
親が生きている時、それも健康な時に親孝行をするものだと痛感しています。
親には健康に長生きしてほしいです。


それでは!

エイベックス・チャレンジド・アスリート

高田 裕士
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