1979年当時の急行「利尻」はまだ旧型客車であり,寝台車も連結されていました.帰りも「利尻」に乗っており,ここでは面白い光景を目にしましたが,それは後の話になります.自由席は北海道ワイド周遊券で利用できるので旅人が沢山乗っており,下り列車と上り列車の行き違う駅で下り→上り,あるいは上り→下りに乗り換えることにより一夜の宿代を浮かせられるというわけで,「利尻」に限らず北海道や九州の急行列車では行き違い駅で乗り換える猛者たちがたくさんいました.利尻は旭川か名寄で可能だったのかなあ.私は,これは一度もやったことがないのでよく覚えていません.
 
 夏の早い夜明けとともに,列車は宗谷本線を北上しサロベツ原野のかなたに利尻島が見えてきます.急行「利尻」の名の通りの光景がみられました..さすがに2晩続けての夜行はきつい,と思ったのですが,この後も何度か経験しています.

 1979年7月19日朝,日本の鉄道最北端の駅,稚内に「利尻」は到着しました.ここから稚内港まで歩いてフェリーに乗りました.この旅,最初の目的地は礼文島.アイヌ語の「レ・ブン・シリ(沖の島?)」から取られた日本最北の島です.道ばたに高山植物が咲いている本当にきれいな島です.南の島に行く人は多いのですが北の島にも是非目を向けて下さい.

 当時,礼文島には3つのユースホステルがありました.礼文町立船泊ユースホステル,礼文ユースホステル,そして桃岩荘ユースホステルです.1979年春に九州の旅をした時に桃岩荘の噂は何度も聞いていたので桃岩荘ユースホステルを選択.まあ北の「キ●●●ユース」ですね.当時北海道にも「●チ●●ユース」として有名なところに,利尻オシドマリユースホステル,えりも岬ユースホステル,野中温泉ユースホステルなどが知られていましたが,その中でも別格中の別格が桃岩荘と聞きました.逆に,ここは行かない方がよいと言われていたユースホステルもいくつかあったのですが.有名どころでは「メロンパンユース」と呼ばれていた某ユースホステルなど.まあ,一度桃岩荘へ行ってみようじゃないかと,そんな気持ちで行った訳です.3泊を予定していました.その後利尻島にわたってオシドマリユースに行こうかなと思っていました.

 港に着いたとたんに圧倒されました.何かやたら人がいるんです.船が着くと大声が響き渡り,船が出る時に大きな歌声が流れ踊っているんです.まあ,高千穂もユース最寄りだった天岩戸駅にお迎えの人がいっぱいいたし,内緒だけど鉄橋の上でラジオ体操していたような気がするし.
 
 礼文島は細長い島です.港と桃岩荘は東海岸と西海岸で反対側なのですが歩きます.桃岩トンネルをくぐると時計の針を20分進めることにされます.桃岩時間という桃岩荘独特の時刻設定でした.

 3か月前に葉書で予約していたため,受付のお姉さんに「栄光の1番ベッドです」と言われた時から桃岩荘の生活が始まりました.ミーティングは桃岩荘の名物なのですが,とにかく歌と踊りが続きました.しかし,このユースホステルは時間に厳格です.というのは8時間コースという名物コースがあり朝早くユースを出発して礼文島の西海岸を走破する人たちがいるからです.消灯時間は厳格でした.夜行2泊後なのでよく眠ったことを覚えています.桃岩荘はもともとニシン番屋だった建物だったと思いますが,天井がとにかく高い.

 7月20日,8時間コースを走破しました.桃組,岩組,荘組の3組に分かれてリーダーが一番前,サブリーダーが一番後ろを歩いていきます.統率がとれていました.スコトン岬からスタートして,ゴロタ岬,西上泊(だったっけな),猫岩,地蔵岩などの地名を覚えています.はじめは山,その後海沿いを歩いたように記憶しています.
 ユースに戻ると,フルコースという例の踊りで迎えられます.桃岩荘は連泊でもベッドが変わることを初めて知りました.1番ベッドではなく,違うベッドになりました.

 7月21日は,ユースの前の海岸でメノウを拾ったり,港にお出迎えにいったりお見送りに行ったり,「階上喫茶さざなみ」のソフトクリームを食べたりして過ごしました.「今日から大船丸ね」と言われ「?」・・連泊者の集うお船のお部屋だそうで,先輩たちにご挨拶しました.「えっ.今日だけ」と言われ,「はあ,もう少しいます」から結局は9連泊に.その間は,ユースの前の海岸,港までのお出迎えとお見送り..もう1回くらい8時間コースを歩こうかなと思って7月24日(6連泊目)にもう1度西海岸走破.このときは荘組(だったかな)のサブリーダーをさせていただきました.で,帰ってきたら,
大船丸のリーダーから「明日,島の掃除するからまた8時間歩くよ」と言われ,2日連チャンの8時間コース.このときはゴミ袋を持って「アホ組」として島のゴミ拾いをしたのでした.

 いつまでもいようかと思っていた時に,思い出したのが周遊券の存在.全く使ってないじゃん(←神奈川出身ではないのに神奈川弁).7月28日に島抜け(といっていました)をする人が何人かいたため,一緒に出ようかということになりました.今から思うとちょっと不思議なのは,この島抜け仲間にヘルパーさんが1人いたのです.後にヘルパーをすことになった高千穂ではこんな時期にヘルパーを終えることはなかったので.

 7月28日最終便で礼文島を離れることにしました.この島を離れる船が港に着いた時,島に着いた人の中に知った顔を見つけました.1978年夏に東北を旅した時に,男鹿ユースホステルのヘルパーだった女性3人組だったのです.わずか30分ほどの再会でした.

 9日間過ごした,礼文島に別れを告げました.礼文島にはこの11年後,再訪していますが,桃岩荘で過ごしたのはこの9日間が最初で最後となりました.そして結局利尻島にはまだ行っていない自分がいます.
 (つづく)