早く父をなくし、母子家庭で鍵っ子育ち、中学生で軟式テニス部に入部、中学生にして新聞配達のアルバイトをして道具を揃えました。悪友に誘われるまま器楽部入り、少しだけビオラをかじりました。よく調弦の最中に弦を切ってしまい、弦を自分で買うお金がかかるのでやめて合唱部に移籍しました。その頃珍しかったのは、そこの合唱部がは、ベートーベンの第九を原語ドイツ語で歌っていました。高校に入り1年間はバレー部に所属しましたが、オートバイに夢中になり、同時、限定解除になりたての大型二輪の試験を20回も受けてやっとのことで受かりました。試験を受けるために学校を早退したり休んだりしたので、成績は下から数えた方が早い位でした。一時は進級や卒業も危ぶまれる状態でした。
何とか卒業したものの就職難で、成績、素行も悪かった為、やっとの思いで、中学生のころ、児童館のボランティアをしていた時代に知り合った社長さんの所へ行って、鉄工所の溶接工として働き始めました。以降そこの会社の中で建築部に移り、鉄骨建築の現場監督になりました。次は卒業したのが工業高校の電子科だったので、コンピューターの修理をするエンジニアに転職しました。さらに趣味で乗っていたオートバイで事故に遭い、その示談交渉の相手の保険会社の支店長にスカウトされ保険の代理店をしました。並行して趣味で乗っていたオートバイの指導員の資格を取り、ボランティアで指導員をしたり、試験場の原付合格者の実技講習の指導など有償でやっていました。指導員で知り合った六本木のBARの社長に拾われて、バーで働きました。社長が六本木の店を閉めて里の九州に帰りそちらでお店をやると言うことになったので、やはりオートバイで知り合いになった電器店の社長の誘いで、店長で入り内装業も始めたので総括部長になりました。その後電器店が立ち退きのために閉店することになり、内装業時に手がけたラブホテルのリニューアルで知り合った社長さんのところで働いているうちに、他の社長さんからラブホテルを新たに手掛けるとの事で、企画、金融資金の調達事業計画の立案、古いラブホテルの買収計画を進め、最終的に2軒のラブホテルの取締総支配人を引き受けました。その後ある銀行を介して、ラブホテルや多種な子会社を持つ会社にホテルの経営の立て直しの為に誘われて移りました。立て直しが順調にできたので他の子会社のテコ入れや立て直し、所有している空き物件の有効利用のための企画や事業開発で訪問介護事業所の開設準備室長やメンタルクリニックの開設、及び事務長もしておりました。同社内で警備会社のテコ入れも、当時容器包装リサイクル法で話題になった、コンビニ袋を回収して、燃料にしてそれを燃やして電気と熱に変換してそれを利用して布おむつのクリーニングをしてレンタルすると言う事業の配送センターの所長経て、事業全体の統括部長としてお客様のクレームや下請け工場の確保、配送の改善などをしました。
一つ一つの企業が改善されたが、親会社の資金の運用がうまくいかず、給与カットや部下の待遇保全の問題でそこの会社を辞めました。
そして病院やホテルなどにシーツ、タオル類を洗ってレンタルするリネン業の配送2tトラックの運転手になりました。さらにその後大型免許を生かして、羽田と群馬県を中距離で毎日往復する11tトラックの運転手をしました。運転手よりも羽田の航空便の扱いをするフォークリフトの運転手の方が給料が高いし、立場も楽だし、フォークリフトの資格を取って派遣で大手の運輸倉庫に勤めました。
そんな中、年寄りだった私は若い人に使われてうまくいかずいじめに遭い鬱症状になり出社拒否症になってメンタルクリニックに通院、働けなくなって引きこもり、生活保護のお世話になり途中いろいろな病魔に襲われ、現在に至ります。
私が30歳の時に母を見送り、兄弟もおらず、懲りずに3回も結婚し、失敗して、孤独な人生です。
人生50年と思い働いてきましたが、思いのほか長生きしてしまい、予想し得なかった人生を歩むこととなりました。紆余曲折をたどった。
私を知ってもらってこうなった原因を想像してもらうためにこれを書きました。他には趣味でボーリング、レース、ローラースケート、スケートボード、サーフィン、ゴルフ、硬式テニス、数え切れないほどいろんなものに興味を示し夢中になって見ましたか、何一つ血肉になっておらず、今を生きやすくするのに役立っているものはありません。