今回のBeトレのテーマは「夢」
内容については、たまたまみつけたこのブログにすごくわかりやすく要点がまとめてあるので、参加した人は振り返りをかねて、DVD待ちの方はこれを脳内映像化してお楽しみくださいまし♪
実は私、パッションテストファシリテーターとかやってるくせに自分の夢ってよくわからなくて、具体的に人に説明できるような形じゃなかったりするのだけど、こうしたい、という形態よりも、こうありたい、というあり方だったりします。
要するに、自分がやりたいと思うことをやりたいと思った時にいつもできている、というような、それ言っちゃったらもう万能だよな、といううまい言い回しでもあり、使い方によっては逃げ道にもできるというすばらしいキーワードですが、逃げ道ってのは、やっぱ必要でしょw
逃しどころないと、たまると爆発するからねえ。
なので、見た目うまくいってないとか、心ざわついて動揺してるとかいうときであっても、「それってやりたいことができてる現状でしょ」って言われれば、まさにそうです、私はいま落ち込みたいんです(´・ω・`)とか、丸く収まってしまって、つまるところもう夢叶ってるってことになります。
実際、確かにそんなに昔のように「あれができたらいいのになんで・・」とか、悲観することはほぼないし、不満とかほぼないかな。時給労働への個人的な思いや、「いやいや、そんなの知らんがな!」ってことはあっても、それが自分の存在とか、パッションにおいて何か問題になるかといったらそうじゃないので、別にそういうモヤモヤがあったって構わない。気にならない。
人に説明するのだけがやや難儀なんだけどね。
別にいい、誰かにわかってもらうことが目的じゃないからさ。
さてさて、
幼少期から、食べ物の好き嫌いが結構あって、もちろん小学校の給食の時間は毎日緊張していました。
30年前の小学校なんて、今のようにアレルギーがどうってことも少なかったし、嫌いなものでも残すのは許されなくて、完食するまで掃除の時間まででも席から移動させてもらえず、クラスに一人くらいはそういうのを見張る男子がいて、絶対残すんじゃねえとかしつこく絡んできたりして、今思えば「ふざけんじゃねえよ」って机ひっくり返したってよかったんだろうけど、その時はそんな発想すらできなかった。
大体、嫌いで食べられないって言ってるものを、時間かけたからって食えるわけないんだよ。
私ももうちょっと賢かったら、早めに何とか対策を講じるようにすればよかったんだけど、子供だったからね、せいぜい年に何度か「手が滑って」皿をこぼす、のが精一杯で(それはそれで怒られたが、食わずにすんだという安心感の方が大事だった)、あとは、なんとかそいつが目を離したすきに何とかしておかずなり何なりを机とかランドセルに収納するほかなかった。
具体的にどういう状態なのかは詮索するなw
とにかく、今はそういうのおおらかみたいなので、いい時代になったなー、って思うよ。給食に関してはね。
学校のみならず、自宅でももちろん食べ物に関してはそんな感じで、母は真面目な人だったので、やっぱり残すのは基本許されないわけよ。
栄養のバランスとか、しつけ的なこととか、いろいろ考えて愛してくれてのことなんだろうけど、今それにまつわる思い出としての印象は、
辛かったです。
ご飯、楽しくなかったです。
多分、記憶は700%ウソだから、私はきっとたいていの食事は残さず普通に食べていたんだと思う。(・・・それほどでもなかった、ってのが事実だと今でも本当はおもってるけどな)
美味しかったメニューもあった。肉とか肉とか肉とかさ。
でも、やっぱり思い出に強く残ってしまっているのは、あんまり好きじゃないおかずがたべられなくて、学校と同じようにもうみんな食事終わってるのに、母は皿とか洗いだしちゃってるのに、惨めな気分で野菜炒めをちびちびつっついている小さい自分とか、食べるのが遅いって怒られたこととか、TV見ながらだと箸がとまる、ってTV消されたとか、時間内に完食できるのがあたりまえだからそういう時にほめてもらえるわけでもなく、その期待、というより、基準に達しなかった場合は文句言われるという理不尽。
今だったら、そもそもアンタはつくる量が多すぎんだよ、しかも、料理うまくないんだよ、葉っぱ食べなくたって死にやしねーよ、とか言えるんだけど、当時はそんなこと言えるはずもないし、そもそもそんなこと考えつきもしなかったから、食べるのが遅くて好き嫌いばかりな自分はダメなんだ、ってずーーーっと思って、食事の時間がくるたび、今日はきちんと食べられますように、ばかり願っていた、ような記憶ばかり。
美味しかったものもいっぱいあったはずなんだけどね・・・肉とか、鮭とか、さ。
うどんの麺だけとか、餅とかも好きでした。あと、ゆでたまごも。
何の話だっけ、ああそうそう、偏食ね、好き嫌いね。
進学して上京して、嫌いなものを食べなくていい、ということが代えがたい歓びでもありましたが、友達と何か食べに言ったり、仕事するようになって会社の人にごちそうしてもらったり、いろいろな食事の機会が増えてくると、何だかんだであまり好きでもないものでも、「おいしいです」といって何とか胃に流し込まないといけない状況も増えてきました。
そうやって、今まで嫌いで絶対ムリと思っていた食材のうちのいくつかは、それほどムリじゃないかも、という程度には慣れてきました。気が遠くなるほどムリなものでも、仕事の付き合いなどであればそれこそ死ぬ気で、にこにこしながら何とか酒で流しこんだりとか、がんばりました。
昔わがままだと言われていたころよりは、そこそこ、誰とでも最低限は付き合えるようになりました。多分。
がんばれば大抵のものは摂取することができるようになったので、食事が以前のように辛く苦しい行動ではなくなりました。
それでも好き嫌いがあることはコンプレックスで、何でも食べられる人がうらやましくて、超えられない壁を43年くらい感じて生きてきました。
もちろん、42年くらいの段階で、もうムリしつづけるのもなあ、と、「食べられないモノの方が多いから」と、先に言うようにするという知恵を身につけることができました。
この年令になれば、さすがにそれを言って「若い者はしつけがなってない」と言われるような機会もほぼなくなりますので、これでぐぐっと気がラクになりました。
それでも好き嫌いはコンプレックス。
何でもおいしく食べられるという人にとっては、人生の中で毎日くる食事タイムはきっとすごく楽しいんだろうなあ、私はその時間の大半が苦痛なんだよなあ・・・
今回のBeトレで、「飲み屋でだされる突き出しを食べるか、食べないか」という話がでました。
仁さんが前にもいろんなところで言ったり書いたりしてたやつ。
それ自体は目新しい話ではありませんでした。それ聞いて、私も「食わなくていいのか」と、即残す方向に実践しておりましたから。
知っていたし、そうしていたんだけれど、それでもコンプレックスではあったのです。
何度もきいてたこと、なのに、その瞬間思ったんです。
私にこれだけ食材の好き嫌いがある、ってことは、もしかしたら「たい」を研ぎ澄ますチャンスが人より多いってことではないのだろうか!
・・・ですよね~o(〃^▽^〃)o
最近わかんなくなってしまったけど、そもそも初期状態では、あれだけはっきり好きなものと嫌いなものがあったんだから、それに忠実になる、ってことは、好きを選ぶ感性につながるのではなかろうか。
この体質?の私は、「たい」の精度をあげることに向いている、ってことですよね。
私、恵まれてたんだ。ラッキーなんだ!
43年も、それは良くないことで不便で不利だ、欠点だと思い込んできたことが、すべてひっくり返った瞬間でした。
内容については、たまたまみつけたこのブログにすごくわかりやすく要点がまとめてあるので、参加した人は振り返りをかねて、DVD待ちの方はこれを脳内映像化してお楽しみくださいまし♪
実は私、パッションテストファシリテーターとかやってるくせに自分の夢ってよくわからなくて、具体的に人に説明できるような形じゃなかったりするのだけど、こうしたい、という形態よりも、こうありたい、というあり方だったりします。
要するに、自分がやりたいと思うことをやりたいと思った時にいつもできている、というような、それ言っちゃったらもう万能だよな、といううまい言い回しでもあり、使い方によっては逃げ道にもできるというすばらしいキーワードですが、逃げ道ってのは、やっぱ必要でしょw
逃しどころないと、たまると爆発するからねえ。
なので、見た目うまくいってないとか、心ざわついて動揺してるとかいうときであっても、「それってやりたいことができてる現状でしょ」って言われれば、まさにそうです、私はいま落ち込みたいんです(´・ω・`)とか、丸く収まってしまって、つまるところもう夢叶ってるってことになります。
実際、確かにそんなに昔のように「あれができたらいいのになんで・・」とか、悲観することはほぼないし、不満とかほぼないかな。時給労働への個人的な思いや、「いやいや、そんなの知らんがな!」ってことはあっても、それが自分の存在とか、パッションにおいて何か問題になるかといったらそうじゃないので、別にそういうモヤモヤがあったって構わない。気にならない。
人に説明するのだけがやや難儀なんだけどね。
別にいい、誰かにわかってもらうことが目的じゃないからさ。
さてさて、
幼少期から、食べ物の好き嫌いが結構あって、もちろん小学校の給食の時間は毎日緊張していました。
30年前の小学校なんて、今のようにアレルギーがどうってことも少なかったし、嫌いなものでも残すのは許されなくて、完食するまで掃除の時間まででも席から移動させてもらえず、クラスに一人くらいはそういうのを見張る男子がいて、絶対残すんじゃねえとかしつこく絡んできたりして、今思えば「ふざけんじゃねえよ」って机ひっくり返したってよかったんだろうけど、その時はそんな発想すらできなかった。
大体、嫌いで食べられないって言ってるものを、時間かけたからって食えるわけないんだよ。
私ももうちょっと賢かったら、早めに何とか対策を講じるようにすればよかったんだけど、子供だったからね、せいぜい年に何度か「手が滑って」皿をこぼす、のが精一杯で(それはそれで怒られたが、食わずにすんだという安心感の方が大事だった)、あとは、なんとかそいつが目を離したすきに何とかしておかずなり何なりを机とかランドセルに収納するほかなかった。
具体的にどういう状態なのかは詮索するなw
とにかく、今はそういうのおおらかみたいなので、いい時代になったなー、って思うよ。給食に関してはね。
学校のみならず、自宅でももちろん食べ物に関してはそんな感じで、母は真面目な人だったので、やっぱり残すのは基本許されないわけよ。
栄養のバランスとか、しつけ的なこととか、いろいろ考えて愛してくれてのことなんだろうけど、今それにまつわる思い出としての印象は、
辛かったです。
ご飯、楽しくなかったです。
多分、記憶は700%ウソだから、私はきっとたいていの食事は残さず普通に食べていたんだと思う。(・・・それほどでもなかった、ってのが事実だと今でも本当はおもってるけどな)
美味しかったメニューもあった。肉とか肉とか肉とかさ。
でも、やっぱり思い出に強く残ってしまっているのは、あんまり好きじゃないおかずがたべられなくて、学校と同じようにもうみんな食事終わってるのに、母は皿とか洗いだしちゃってるのに、惨めな気分で野菜炒めをちびちびつっついている小さい自分とか、食べるのが遅いって怒られたこととか、TV見ながらだと箸がとまる、ってTV消されたとか、時間内に完食できるのがあたりまえだからそういう時にほめてもらえるわけでもなく、その期待、というより、基準に達しなかった場合は文句言われるという理不尽。
今だったら、そもそもアンタはつくる量が多すぎんだよ、しかも、料理うまくないんだよ、葉っぱ食べなくたって死にやしねーよ、とか言えるんだけど、当時はそんなこと言えるはずもないし、そもそもそんなこと考えつきもしなかったから、食べるのが遅くて好き嫌いばかりな自分はダメなんだ、ってずーーーっと思って、食事の時間がくるたび、今日はきちんと食べられますように、ばかり願っていた、ような記憶ばかり。
美味しかったものもいっぱいあったはずなんだけどね・・・肉とか、鮭とか、さ。
うどんの麺だけとか、餅とかも好きでした。あと、ゆでたまごも。
何の話だっけ、ああそうそう、偏食ね、好き嫌いね。
進学して上京して、嫌いなものを食べなくていい、ということが代えがたい歓びでもありましたが、友達と何か食べに言ったり、仕事するようになって会社の人にごちそうしてもらったり、いろいろな食事の機会が増えてくると、何だかんだであまり好きでもないものでも、「おいしいです」といって何とか胃に流し込まないといけない状況も増えてきました。
そうやって、今まで嫌いで絶対ムリと思っていた食材のうちのいくつかは、それほどムリじゃないかも、という程度には慣れてきました。気が遠くなるほどムリなものでも、仕事の付き合いなどであればそれこそ死ぬ気で、にこにこしながら何とか酒で流しこんだりとか、がんばりました。
昔わがままだと言われていたころよりは、そこそこ、誰とでも最低限は付き合えるようになりました。多分。
がんばれば大抵のものは摂取することができるようになったので、食事が以前のように辛く苦しい行動ではなくなりました。
それでも好き嫌いがあることはコンプレックスで、何でも食べられる人がうらやましくて、超えられない壁を43年くらい感じて生きてきました。
もちろん、42年くらいの段階で、もうムリしつづけるのもなあ、と、「食べられないモノの方が多いから」と、先に言うようにするという知恵を身につけることができました。
この年令になれば、さすがにそれを言って「若い者はしつけがなってない」と言われるような機会もほぼなくなりますので、これでぐぐっと気がラクになりました。
それでも好き嫌いはコンプレックス。
何でもおいしく食べられるという人にとっては、人生の中で毎日くる食事タイムはきっとすごく楽しいんだろうなあ、私はその時間の大半が苦痛なんだよなあ・・・
今回のBeトレで、「飲み屋でだされる突き出しを食べるか、食べないか」という話がでました。
仁さんが前にもいろんなところで言ったり書いたりしてたやつ。
それ自体は目新しい話ではありませんでした。それ聞いて、私も「食わなくていいのか」と、即残す方向に実践しておりましたから。
知っていたし、そうしていたんだけれど、それでもコンプレックスではあったのです。
何度もきいてたこと、なのに、その瞬間思ったんです。
私にこれだけ食材の好き嫌いがある、ってことは、もしかしたら「たい」を研ぎ澄ますチャンスが人より多いってことではないのだろうか!
・・・ですよね~o(〃^▽^〃)o
最近わかんなくなってしまったけど、そもそも初期状態では、あれだけはっきり好きなものと嫌いなものがあったんだから、それに忠実になる、ってことは、好きを選ぶ感性につながるのではなかろうか。
この体質?の私は、「たい」の精度をあげることに向いている、ってことですよね。
私、恵まれてたんだ。ラッキーなんだ!
43年も、それは良くないことで不便で不利だ、欠点だと思い込んできたことが、すべてひっくり返った瞬間でした。