たかびの自己満観劇ブログ
今後の鑑賞予定。鑑賞が被る方は是非ご挨拶させて下さい♪

更新日:令和2年2月12日


令和2年4月22日…愚か者達へのレクイエム ミュージカル版/パン・プランニング(築地ブディストホール)

久し振りの芝居鑑賞となった。

気が付けば2024年まる1年鑑賞が無く、芝居鑑賞は2023年7月のKENプロデュース公演【烈火の人】以来ちょうど2年振り。
※本当は2月にも同じKENプロデュースの公演に行く予定だったが体調不良で叶わず。

 

-今回の公演は…-

 


映像劇団テンアンツ【ひとくず】

"映像作品も舞台作品も作る"同劇団が制作した2019年の映画【ひとくず】を舞台化したもので、2022年初演の舞台の再演。映画出演俳優の一部が映画と同じ役で出演しているとの事。

劇場は下北沢に於いて"演劇の聖地"と呼ばれている本多劇場。

この劇場で公演をする事を目標にしている劇団は少なくないと聞くし、テンアンツにとってもそうだった様で…。

本来は前楽の8日に鑑賞予定だったのだけど、諸々の事情により前倒しで4日鑑賞…って、初日やないかい!(途中まで気付かなかった)


-かくして劇場に向かったのだが…-


14時開演という事で早めに下北沢に行き、強烈なインパクトの超極太麺を使うラーメン屋さんで塩ラーメンを食べつつ…

太っ


13時頃には本多劇場に到着。

すると開場前の劇場入口には劇団か出演俳優か、とにかく熱心なファンの方々が早くも長蛇の列を暑い中作っていたので、どうせ指定席だと思い30分ほど時間を潰してから再度劇場を訪ねると、劇場前の行列はまるっと無くなっていたので、開場したのかな?と思ったが、暑い中並ぶ行列を見て劇団側が気を利かせたのか、空調の効いたロビーを開放して行列を丸ごとロビーに移動しただけだった。


そしてこれが、悲劇の始まりだった…(大袈裟)

運営側の見立てが甘かったのか、本来は行列を作る様には出来ていない場所に強引に行列を作ってしまったのもあってか、場内整理やチケットの受付も儘ならずロビーは大混乱…並ぶ客側からも苛立ちを感じる声が飛ぶ…

素人意見だが、何が失敗って「並んだ順」ではなく「席種順」に受付をしたのが一番の失敗だったんじゃないかな。

SS席の方~、S席の方~、なんてやってたらそれは行列も崩れてぐちゃぐちゃになるし、並び順の受付じゃないなら何のために行列作ったんだよって、それはそうなるよ。

それぞれお客の名前をピン止めしたチケットをずらりと並べる、比較的ありがちな受付スタイルだったので色々な席種が混ざると受付スタッフが混乱するというのもわかるが、であれば受付テーブルをもう一脚置いて席種ごとに完全に窓口を分けてそれぞれに並ばせれば今回の様な混乱は無かったかも知れない。

開演時間の14時になっても未だチケットの手続きが出来ずに客席に入れないお客がロビーに100人以上いる異常事態に、初日限定で前説を担当すると告知されていた"前説師"ホーネット加藤さんと仰る方が「客席に誰もいないから」と言ってロビーに出て来てロビーで前説を始める始末。

調べたら"前説師ホーネット加藤"というのは同劇団の別の作品のキャラクターの様で、マスクを着けて素顔を隠し、演出家の大親友を自称しているが、演じてるのはどうやら同劇団の演出家兼主演俳優ご本人。道理で様々な権限を発動しまくってた訳だ(笑)

ロビーで前説というのは苦肉の策だったんだろうけど、ファンの人からすればたまらないプレミアなんだろう、以降大きな声を挙げるお客はいなくなった。

…とは言え、大幅に開演が押しているのは事実。

前説の場所を舞台上に移しつつ、ホーネット加藤さんが一人でヘロヘロになりながらあの手この手を使って笑いを取りまくった前説で引っ張る事、実に40分!

つまり開演時間が40分押すという異常事態。
X-JAPANのLIVEとかなら別としても、なかなかこれは"ごめんなさい"では済まない規模の遅延になってきていた。

本番を控えた役者陣が衣装のまま総出で客席に出て飲料水を配って歩く…など異例の対応に追われる中、前情報では上演時間休憩込み3時間と聞いていたのに、休憩込み3時間半である事が判明…

14時開演・上演3時間で17時終演の予定が14時40分開演・上演3時間半で18時10分終演に変更になれば、それは色々不都合が生じる人もいるだろう。

…と、作品の感想に入る前にここまでの長文になるのもまた
"異例"である。


-やっとお芝居の話になるよ-


以下、めちゃくちゃネタバレあり、記録の為にご容赦願いたい。


---少女を救ったのは人間のくずだった…---

チラシやパンフレットの表紙に書かれた、扉文と言っていいんだろうか。

都合の良い言葉が次々と生まれてくる世の中、ここ10年近くの間に耳にする様になった言葉の中に【毒親】とか【親ガチャ】とか、そういう言葉がある。

生まれた時から既にマイナススタート、そんな境遇の人達の物語。

実は主演、演出、脚本を務める上西雄大さんの実体験が下敷きにある様子。

空巣家業をする男が盗みに入った家で出会った少女に自分と似た境遇を感じ、食べ物を買い与えるところから交流が始まる。

何を聞いても答えずただ怯える少女、電気もガスも止められたアパート、男は少女の腕に根性焼きの跡を見付け、虐待されている事を知る。

作品は、男と少女の交流を中心とした"現在"と、男の少年時代の出来事を描いた"過去"が交互に展開していく。

"現代"と"過去"は完全には切り替わらず、"現代"にいる人物の回想である事を印象付ける為か、"現代"の人物はその場に居て背景と化し、同じ舞台上で過去のシーンが繰り広げられる…という見せ方が多かった気がする。
(もちろん盆を回す事でセットを変えて完全に時代を切り替える場合も存在する)

…まぁ、実態としては、現代と過去を交互に繰り返すという構成上どうしても場面転換が増えてしまう為、舞台上の転換をなるべく減らす為の工夫、というのもあるのかも知れないな。


少女の母親がそうである様に、男の母親もまた「母親になれず女で居続け、女で居続ける為に子供が邪魔だった」人物であり、その近くには"惚れた弱み"につけ込んでオラつく男がいて子供を虐待し、母親はその男の近くに居続ける為に我が子を見殺しにする。

そんな境遇が合致したのか、男は少女を放っておけずちょくちょく顔を見せては世話を焼く様になり、そして鉢合わせた少女の母親に対しその不甲斐なさを怒鳴りつける。

徐々に男に対して心を開き、無邪気さと笑顔を取り戻していく少女と、逆にヒステリックになる母親。

まぁ、それは突然我が家に身元不詳の男が上がり込んできただけでも恐怖しかないのに、我が物顔で居座られた挙句に家庭の事情に口を挟まれて説教までされたら、そりゃ正気じゃいられないよね、と思うんだがいかがなものだろうか。


過去の経験からか心が荒んでいる男は、そんな母親と売り言葉に買い言葉と衝突を続けるが、やがて少女の母親も自分と同じ境遇の人間だという事に気付く。
また母親も男の乱暴な言葉遣いとは裏腹に、男に悪意がない事は感じてるんだろうな…という表情を時折しながらも、やはりこれまでの経緯が邪魔をして素直に受け取る事が出来ずに突っぱねてしまっている風な印象を受けた。わかるわーその気持ち。

一般的には"奇妙"としか映らないこの状況で、男、少女と母親、三人が三人とも不器用なりに一番収まりが良さそうな場所を模索する中で、母親の"彼氏"がそれを黙っておらず…。

かつて思春期時代に自分の母親を守ろうとして"彼氏"を殺めてしまった経験がある男、歴史は繰り返すのかとばかりにこの場でも母親の彼氏を殺めてしまう。

そんな状況で男と母親の関係は一層険悪に…と思ったが、少女へ真摯な態度で接し続ける男に、母親もまた徐々に態度を軟化させていく。
しかしある場面で、急に男にベタベタしだした母親にはびっくりしたなー…

 

軟化どころか"ふにゃふにゃ"じゃねーか!

冗談はさておき、仕方ない事なのかも知れないが、マイクを通さない生の声で怒鳴りあう為、セリフとしての聞こえは些か不十分に感じる箇所がいくつかある様に感じた。特に母親は甲高い声と怒鳴る発声が合わさって感情が昂る表現がとても良く伝わってきた分、セリフの明瞭さが犠牲になってた印象を受けたな。

まぁ、某大手ミュージカル劇団の様に感情を殺してまでセリフに明晰さを求める趣旨ではないのかも知れない。

自身の少年時代を投影した少女とその母親との交流を経て、自身も徐々に態度を軟化させていった男は少女の身体にある虐待の跡が原因で少女が虐められている事を知り、少女の身体の傷を治してやると約束する。

そして、そんな少女の事を理解してやれない母親に怒りをぶつけ、それを受けた母親は子供の愛し方がわからないと思いの丈をぶつける。

男も自分の過去を母親に話し、そして少女の母親に本当の家族になって少女の父親と母親になれないかなと呟き、母親も少女もそれを受け入れる。

少女の誕生日当日に少女の担任、児相職員、かつて男と何らかの関わりがあったと見えるこども食堂の運営者…かつて虐待される自分を身体を張って助けてくれようとした当時の担任であったその人を単身訪ねた男は、母親と少女と家族になる事を報告し、そして頭を下げて、少女との約束…虐待の跡を治してやれる医者を探す協力を依頼する。

このシーンで、過去の記憶の中で歌う担任の先生と、現在のこども食堂の運営者の歌声が重なる美しい演出がある。

男の中にある当時の記憶と同じ記憶が、先生の中にもあるんだという事を印象付ける感動的な演出だった。

がしかし、ケーキとプレゼントを抱えた男は家の前で突然警察に取り囲まれ、件の殺傷容疑で少女の目前で逮捕される。泣き叫ぶ少女の目の前で連行される男。

このシーンが本当にすごかった。
今作品唯一の子役である少女の凄まじい熱演。

その熱演ぶりに、シーンが終わる前に客席から拍手が巻き起こる。

凄いなあの子…。

あ、そう言えば男の子供時代も子役だとばかり思ってたけど、27歳の女性劇団員だった…そう言えば前説で弄られてたな。身長131センチしかないんだとか。

上を向きかけた生活がまた転落してしまった母親だったが、自分が娘に対し愛情を注げなかった事を後悔したのと同じ様に、やはり後悔に苛まれていた自分の母親と会い、許す事でわだかまりを解き…、長い時間が過ぎて出所した男を出迎えたのは手術を受けて虐待の跡が消え、そして大人になった"娘"、すっかり角が取れた"妻"、それから大きな後悔が残ったままになっていた"母親"

母親と抱き合い、それまでの過去を清算する様に大声で泣いた男。

不器用な人間同士が、過ちを犯しすれ違い、それでも頑張って愛そうとした、親子三代に渡る感動的な愛の物語だった。

作品の性格上、暴力的な言葉遣いやシーンを多用していて子役が出演している舞台とは思えないくらい教育上よろしくない台詞やシーンも多い。

しかし、これが全くの架空の物語ではなく、実際にこの様な境遇に置かれてる人がいるんだという問題提起をしている様にも見える作品だった。

カーテンコールでは、開口一番に不手際の謝罪をしつつ、この作品の未来について語られた。

この舞台の元になったのは映画だが、当時の映画には盛り込めなかった要素を沢山盛り込んだこの舞台を足掛かりに、今度は映画のリメイクを目標にするとの事。

リメイク版映画が出るなら是非観たいが、その前に原作の映画のDVDをamazonでポチっとやらかした。

※オンデマンドより実物が欲しい世代。



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ご縁があり、今年二度目の観劇。

今回の観劇は…

KENプロデュース公演【烈火の人】


~あらすじ~

『江戸に金銀の火消し有』。そう城下町では噂が立っていた。
金銀とは、兄の金一郎と弟の銀次の事であった。
火消したちは皆豪快で、宵越しの金は持たねえとばかりに、毎晩酒は飲むわ、博打は打つわ、色町に出かけるわで、にぎやかな毎日を過ごしていた。彼らは、行きつけの居酒屋や色町、賭博場まで、様々な場所で騒動を起こしたが町の人気者であった。それは彼らが自分達の生活を守ってくれているヒーロー、火消しであったからだ。
そんなある日、江戸を大火事が襲う。今まで経験した事もないような大火であったが、人々を守る為、火消し達は、荒れ狂う人喰い炎に己の体一つで立ち向かって行く…。
そんな粋でいなせな火消したちの熱くて熱い魂を描いた本作品をアクションチームとミュージカルチームという全く毛色の違う2チームにて描く本格大江戸エンターテイメント活劇!!!


というワケで、江戸時代に活躍した火消人足(現在で言うと、消防士というよりは消防団に当たるのかな?)を題材に、"アクション"と"ミュージカル"の二種類の作品を作りました、という事だと思われる。

一つの台本で演出を大幅に変えた二種類の舞台同時上演の作品は過去にも観た事があるが、アクションとミュージカルとはまた大胆な。

歌とダンスを武器にしたミュージカルチームと、もう片方のアクションチームの武器は何だろうか、殺陣とアクロバット…と言ったところか。

今回の鑑賞はミュージカルチームの初日。


以下、ネタバレ注意。


舞台は江戸の市井(しせい)…時代劇と言っても、髷に月代に腰の物…いわゆるお侍様は全く登場しない。

登場人物は、火消しの面々と、火消しの頭取家族、居酒屋の家族、女郎屋の女郎たち、それと町の人々、女郎達を除いては髪型も自由って感じ。

江戸時代、特に市井の生活や文化に興味がある身としては、これだけで既に観る価値あり!なわけで、作中に登場する下町言葉、廓詞や様々な設定も聞き覚えがあるものばかり。

物語は、江戸一番の火消しとの呼び名がある金一郎・銀次の火消し兄弟と彼らが属する組、大組の連中を中心に、火消しの存在を印象付けるところからはじまる。

火事と喧嘩は江戸の華、ってよく言われるアレを表現するかの様に、火事があっちゃ、金銀が属する『い組』と、い組にライバル心剥き出しの『よ組』の若い衆が手柄を巡って大喧嘩。

火消しの手当てを手にしちゃ、酒をあおり賭博を打ち女郎屋で女を買う、そんなシーン。

芝居としての演出で面白いな、と感じたのが火事のシーンの表現。

炎を担当するのは、全身赤い薄物を纏った女性ダンサー達。
激しいダンスで燃え盛る炎を表現しているのが面白かった。

 

炎を演じる皆さんが狐の面を被ってたのは、狐火=火事の火は悪しき物が着けて回るって意味かな?

また、これに対して消火活動を『闘い』と表現していた火消したちも、そのままアクション活劇の戦闘シーンであるがごとく舞っていた事。

このシーンは、別組のアクションチームではどう表現していたのか、とても気になるところ。

しかし、作中度々起こった大火によって、い組の組頭(主役の一人である金一郎)が亡くなる、という痛ましいシーンから一気に物語の様子が変わっていく。

兄を失った事で弟の銀次は腐り、火消しを辞めて河原者に落ちぶれ、金一郎に身請けの約束をされていた太夫は、次の大火の際に楼主や新造の制止を振り切って、焼け落ちる楼と命運を共にし、町中が焼け落ちてしまった大火では火消したちに町民達が罵詈雑言を浴びせる。
誰も救われない地獄絵図。

特に、金一郎が身請けの約束をした次の瞬間に、金一郎を旦那様と呼んだ太夫が、やっと迎えに来てくれたと言いながら炎に身を委ねるシーンは本当に誰も救われないなぁと思ったり。

後半の銀次の復帰や、亡くなった金一郎の意思が出てきた辺りは、まぁ物語としてこうしなきゃまとまらないよな、ってな感じで。


この作品を書いた作家さんは、恐らく様々な文献を参考にしてるんだろうな、と感じるほど、細かい設定がなされていたのが面白い。


例えば、建物を壊す火消しと、建物を建てる大工は兼業だった事。

一番大組の組名が、い・よ・は・に組で構成されていた事。(い・ろ・は・に、ではない)

女郎達の一人称も、位によって『わちき』と『わっち』にきちんと使い分けされていた事。

女郎屋で、割床が表現されていた事。

江戸の火事を表す時に必ず出てくる三大大火(明暦、明和、文化)を、遠巻きに表現するかの様に、名前こそ出さないながらに、酷い大火が三度起きた事。

関東大震災の被服廠跡地の惨劇でお馴染みの火災旋風も、逆巻きの風と表現されて、当時から甚大な被害をもたらしていた描写もあり。


逆に、変だな?と感じたのは以下の通り。

◎頻繁に『本郷』という地名が出てきた事。

エンディングで吉祥寺の成り立ちへと繋げていた為、そこに繋げる為にそうしたのかも知れないが、本来は本郷界隈も、作中何度か出てきた『川沿いに走った先にある寺』(恐らく諏訪山吉祥寺の事)も、作中に登場した【い組】【よ組】を擁する一番組の持ち場ではない。

作中の大火のシーンで増援が叶わない=他所の持ち場まで見てる余裕がない、という表現がなされていたので、本来神田川の南側を持ち場にしていた、中でも現在の日本橋室町付近に詰め所があったとされる『い組』が本郷界隈に絡むのは難しいかと。


◎女郎達が頻繁に『ありんす』と言っていた事。

林家木久扇師匠がネタに使ってるのもあり、廓詞の中でも最も有名な言葉と言っても過言じゃないんじゃないか、と思える言葉だけど…。

一説によれば『ありんす』という言葉は、明暦の大火後、吉原が人形町から千束に移った後に、吉原の遊女がお里を隠す為に使い始めた言葉とされている。

作中で女郎達が登場していた時代は明暦の大火前であり、また当人達は吉原の遊女ではない事は、作中に「岡場所」という言葉が使われていた事を見ればわかるので、その説に準ずるのであれば、彼女たちが『ありんす』という言葉を使うのは変だ、という事になる。

岡場所は幕府非公認の性風俗街である為、公娼遊郭である吉原とは異なる。

明暦の大火前である点については、エンディングで、直前の大火で江戸城に被害が出た事、登場人物たちに牟礼地への移転を強制するお触れが出た事、それが現在の吉祥寺の成り立ちである事が描かれていた為、作中三度目の大火が明暦の大火をモチーフにしている事がわかるので、本編中のほとんどの時代が、明暦の大火前である事がわかる。

まあ、岡場所の発展がそもそも吉原移転後らしいので、この場合は岡場所って言葉を使ったのが良くなかったのかも知れないけど、吉原じゃ火消人足が足を踏み入れるには敷居が高過ぎるってんで、苦肉の策かも知れないけどね…笑。


作品としては、題材の良さや芝居としての面白さや迫力、また感動の人間ドラマとして、とても楽しめた作品だった。

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ご縁があって久し振りの観劇をしてきた。 

 

芝居鑑賞はYプロジェクト公演ミュージカル【雨と夢のあとに】(2022年5月)以来。 

 

台詞劇となると、演劇実験室◎万有引力【赤糸で縫いとじられた物語】(2018年6月)以来。 

 

また、舞台と客席の境が無いに等しい、小規模な芝居小屋での観劇となると、劇団壱劇屋のワードレス殺陣芝居【独鬼-hitorioni-】(2018年7月)以来…とまぁ、何にしても久し振りの観劇だったわけで。

 

今回の観劇は、エッグスタープロデュース公演【火の風にのって】@両国エアースタジオ。

今回は芸能プロダクション「エッグスター」によるプロデュース公演だが、元々は空感演人という劇団の作品の様。

鑑賞はB班の初日。

劇場に入るとまず目に入って来たのは、なんとも異質なアクリルボード。

 

舞台と客席の間に何枚ものアクリルボードが設置されていた。

恐らく感染防止対策の一環なんだろうが、もしこのままの上演となると、客電がアクリルボードに反射して見えづらいなぁ…などと思いながら最前列の一番下手側の席に着く。

 

全席自由でこの席を選んだ理由は特にない。

強いて言えば、こういった"芝居小屋での公演あるある"で、上手か下手のどちらかに大きく寄った位置(どちらかと言えば下手側が多い)でモノローグが演じられる事が(本当に)良くあるので、もしそういうシーンがあれば、それを目前に見る事が出来る、と言ったところか。

 

ちなみにこちらの作品、実際に下手サイドでのモノローグに加えて、舞台を上手と下手に分けて違う場面を同時進行するシーンがあった為、そのシーンは本当に目前だった事をご報告しておきます。

 

上演が始まると、客電が消え、逆に舞台上が明るくなった為、アクリルボードによる反射は無くなり、そこにあるアクリルボードはさほど気にならなくなった。なるほど、マジックミラー(…号、ではない)の原理か。

 

以下、ネタバレを多く含む為、閲覧注意でお願いします。

 

 

1945年3月10日、太平洋戦争の戦時下に於いてアメリカ軍による度重なる無差別爆撃の中で最も被害が大きかった、いわゆる東京大空襲の日、その戦火の中、命からがらに言問国民学校に逃げ込んできた1人の警護団の男性と3人の若い女性。

 

夫を戦火に亡くした未亡人、一週間前に結婚したばかりの夫を残して戦火を逃れてきた女性、逃げる最中に幼い妹の手を放してしまった女学生…半狂乱になって泣き叫ぶ女学生を必死に励ます未亡人、女学生の代わりに妹を探しに飛び出す警護団の男性…悲惨な描写の数々。

女学生は、"自分が生きた証"として、職場の上司への恋心を書き綴った日記を校舎の壁の中に隠した。

 

2023年3月9日深夜、そろそろ日付も変わり3月10日になる頃、同窓会帰りに酔った勢いで、廃校が決まった母校・言問小学校の校舎跡に忍び込んだ若い女性3人。

施設で育ち親の愛を知らないフリーター、親から自立出来ずに彼氏との仲を許してもらえず家出をした箱入り娘、親の再婚で居場所がなくなり自立せざるを得なかった女性…

思い出の教室の中で、思い出話に花を咲かせる3人。

やがて、教室の中に"秘密の隠し場所"がある事を思い出した3人は、その場所を探し出し、自分が当時隠した宝物と一緒に、昭和20年の日付が掛かれた一冊の古い日記を見つけ出し、その日記に書かれていた恋心に、悪ふざけで、"その人はイケメン?"と蛍光ペンで落書きを書く。

 

戦局の悪化と悲惨な描写が続く中で、それでも日本の勝利を信じ続け強く生きようとする1945年の女性たち、緊迫感一つないながらにそれぞれが問題を抱えた2023年の女性たちのけだるい呑みトーク、恐らく年の頃は同じ程度ながらに全く違う女性像を、全く違う生き方をしている女性たちの両極端な姿を描くシーンが交互に繰り返される中、とある異変が。

 

2023年に書かれた"落書き"が1945年の方の日記帳に浮かび上がり、聞いたことがない"イケメン""令和"という言葉、見た事がない光るインク、説明ができない現象に混乱する三人。

"あなたは誰?"と返事を書いた文字が、2023年の日記にもはっきり浮かび上がり、これまた混乱する三人。

 

日付と場所、そして1冊の日記帳によって二つの時代が歪み、繋がってしまうという…、太平洋戦争戦時下を取り扱った作品数多くあれど、史実とフィクションを大胆に融合させた珍しい作品だった。

 

それまで観てきた戦争物、こと太平洋戦争戦時下の日本を扱った作品には有り得なかった、現代とのタイムリープに、えー…なにそれ…と思ったのは事実。

 

しかし、このタイムリープには、とても効果的な意味があることを作品中盤以降で感じた。

 

明らかにフィクションとわかる大胆な設定があるその反面で、浅草区(現・台東区)、本所区、向島区(以上、現・墨田区)、城東区(現・江東区)、本所亀沢町、横網町、石原町、業平橋(以上、墨田区内の旧地名)、二葉国民学校(現・墨田区立二葉小学校)、言問国民学校(現・墨田区立言問小学校)、被服廠跡地(現・横網公園)など、現在の名前とは違うながらに昭和の歴史に興味があれば聞いたことがある実在の地名が多数登場。

 

日記上のみで文字のやり取りをしていた双方の時代の女性たち、お互いにお互いの時代の事を書き込んでいく為理解が追い付かずますます混乱していく中、お互いが同じ場所にいる事、しかし状況が全く違う事、時代も全く違う事がわかり、やがてお互いの声がお互いの時代に届く様になる。

 

時代が歪んで78年の時を超えて繋がっているという事実に半信半疑ながらに、2023年の日本の事を聞こうとする1945年の女性たち。

 

絶対に勝つと信じていた戦争に負けた事、3月10日の東京大空襲で10万もの犠牲者が出た事、原爆が落ちて広島と長崎が壊滅した事、5ヶ月後に降伏した事、戦争も軍隊も兵器も放棄した事、日本を壊したアメリカと同盟を結んだ事。

 

思いもよらなかった未来の姿に、何のための戦争だったんだ、何のために大勢の人が死んだんだ、と泣き叫ぶ1945年の女性達。

 

その後の日本が平和になった事、美味しい物を食べられる様になった事、自由に恋愛が出来る様になったことを聞き、自分たちもその時代を生きたかったと嘆く1945年の女性たち。

 

戦争が無い時代なのに、自らの将来に悲観して自ら命を投げる人がいると聞いて、その時代に生きたくても生きれなかった私たちの為に生きろ、と絶叫する1945年の女性達。

 

もし私達の死でそんな幸せな日本になるのであれば死ぬのは怖くない、戦争で死んだ人たちの事を、空襲で理由もわからず死んだ子供たちを、赤ん坊を守れなかった母親たちの事を忘れないで、と訴える1945年の女性達。

 

自分としては、とても親しかった人を自死という形で亡くし未だ3ヶ月と経っていない中、人の死に対して敏感になっているところに、これでもかと、これでもか、という程グサグサ刺さってくるシーンだった。

 

そう言えば【あなたが生きている現在は、誰かが生きたくて生きられなかった未来】【平和は誰かの犠牲の上に成り立っている】という言葉をどこかで見た気がする。

 

逆に、2023年の女性達から1945年の女性に伝えられたのは、言問国民学校は空襲で焼け残った事、そこにいれば生き残れる、という事。

 

昭和11年竣工で令和5年現在、現存する最古の校舎として有形文化財に登録されている言問小学校の校舎、これは恐らく本当の事だったんだろう。

つまり、冒頭に出てきた廃校が決まった言問小学校、というのはフィクションなんだろう。

 

その後、1945年の女性達と2023年の女性達が束の間鉢合わせるシーンがあり、その時に2023年3月10日正午に言問小学校のこの教室での再会を約束するんだけど、その時その空間はどの時代にあったのか、何故お互いの姿が見えたのか、それは現実なのか幻なのか、その辺の事は理解できなかった。

 

約束の2023年3月10日正午に存命だった1945年の女性は、女学生のみ、それも90歳を超えていて満足に出歩けず、その場に行く事は叶わなかった、という描写が、戦争からどれほど長い年月が経過したのか、戦争を言い伝える事が出来る戦争体験者がどれほど減っているかを現わしているかのようだった。

 

代わりに現れた老人(役の作り込みが甘かった事、また台詞を読んでる感がやや強かったのはご愛敬か)が、1945年3月10日に亡くなったであろう警護団の男性の息子で、また2023年の女性達のクラスメイトの祖父だったという、時代が続いている事の描写もあり。

 

憲法9条をめぐる改憲問題、軍事力の保有の賛否、戦争時代に逆戻りと揶揄される現行の日本の政治、また今この時もウクライナとロシアによる戦争が続く、戦争が無くならない世の中への反対声明の側面もあるように思える一方、戦争時代の描写を通じてもっとも伝えようとしているメッセージは、生きる事の大切さ、なんだろうな、と感じた。

 

久し振りのぽちっとな。