先日のチーバくんとの飲みで、川の話になったのですこし考えてみる。



阿仁川の一件から始まり、その俺が卒業した年は大きく分けて大川派と井上・石川派(チーバくん命名)があったそうだ。

降下中にも揉め、千葉は同じ考えのメンバーで下りたいと話していた。



そもそも大川派とはなんなのか、井上・石川派とはどういったシステムなのかは次の飲みにでも聞いてみるとして、いくつかの考え方があるのはだいぶ前からである。


俺は1年の時からリバベンに参加している。


ただ、1年の時はほとんど指示されては操船するただのエンジンでしかなく、システムについての理解もまだまだだった。しかし、艇外と意見交換等する場は少なかった。もちろん俺は下っ端だったため、リーダー同士、主要メンバー同士で話していたという可能性は十分ある。



2年目。1つ上の鴨先輩が「僕はそういうタイプじゃないんだよね…」と言ったかは曖昧だが、俺がリーダーとなった。ここでよく覚えているのは、

大久保さんが「星さんは一子相伝スタイルなんだよね。」と言ったこと。星さんとは当時院生の川のスペシャリストだった。事実、星さんはもう1つの上級入りを目指す艇だけを指導していた。もちろん、俺が聞いたら答えてくれていたと思う。その時の俺は先輩にあまり聞かず、遠回りして自己解決するタイプの人間だった。

もうひとつは、ふたつ上の先輩のさっきーさんが「今年は艇間の交流が少ないと思うんだよね」と言っていたこと。やはりある程度の艇間での交流はあったらしい。



3年目。川部門のリーダーとチームのリーダーを兼任。冒頭に出てきた井上と共にチームを組む。スラロームは失敗したが、結果は中級1位。上級優勝を目指したチームにしては残念な結果だが、


「いつだって目標の80%にしか届かない」


というテイケイの監督の言葉を参考にして無理な目標設定をしたのだ。上級には行きたかったがこれは十分な結果だった。チームも俺の能力不足と井上の中耳炎離脱で苦しんだが、最終的には良かったと思う。井上は自分の考えをあまり表に出さないらしい(千葉談)ので、井上が良かったと思っていたかはわからない。

この年は、他の艇はほとんどほったらかしだった。この言い方は正しくない。去年も一昨年もそういう習慣は少なくとも俺には無かった。部門のリーダーになったのならば面倒を見る義務はあったのだが、やはりチームのリーダーは井上に任せるべきであったか。


もうひとつのチームリーダーである石川とは鴨さんと折り合いがつかず、部室前の自転車置き場にあるガードレール?に座ってよく話したのを覚えている。もうひとつのチームリーダーである遠藤とも話をしたと思う。ただ、二つ上の先輩二人が遠藤のチームをよく指導してくださっていたので、技術的なものが主だったかもしれない。


ここまで考えると、3年目は大会に出場したチームとよく意見交換はしている様な気がしてきた。しかし、リーダーとの話がほとんどで、上田や平あたりと話した記憶はあまりない。また、ガチ過ぎる(または殺伐とした)雰囲気で大会に出ていないメンバーが来れず育てられなかったという大失態をしている。苦しい二か月間で、出場したメンバーにも不快な思いをさせたと思う。この年の戦犯は俺だ。


ここまでで、俺や井上、石川の考えがそれほど違うとは思わない。ここから、どのようにして考えが違っていったのか。



4年目。深刻な上級生不足に陥る。間違いなく俺の責任である。1艇すら出ないと思われたが、2つ下の清野の熱意に圧され一つ下の遠藤・田淵が加わる。ここの記憶は曖昧だが、出場が決定したチームと、能力含め出場が微妙なメンバー3人と俺で仮出場が決定したのだと思う。


あの時、勇気を出して青白く細い手を挙げてくれた五十嵐の事を忘れてはいけない。卒業前にもう一度会っておくべきだったか。しかし、垣内とかと違い、たぶん会えるんじゃないかと思っている。平久江や西川と同様に。そのくらいには愛着?愛情を持っている。


話が脱線した。


深刻な上級生不足に陥り、一つ下の田淵はバックスの仕事が分からないと言う。ただ、俺は全体に指導するのはかなり抵抗があった。


少しずつ組み立てて来た自分なりの考えを否定されるのは怖い。システムっていうのは自分の根幹だと思う。手や足の細部と連動してて、そこが揺らぐと全部に影響して降下も出来なくなるくらい。だから割と

全体に対してではなくチームで。チーム内では意見を摺り寄せたり妥協したり。

星さんが一子相伝スタイルだったのは、そういった情けない理由ではないと思うが。


俺が作った資料も流用するなと後輩に言っていたあたり、筋金入りというか本気で嫌だったのだ。(資料は清野が次の年に流用したらしいが)


書くのを忘れたというか別の話になると思っていたのだが、俺が考えるシステムは割と毎年変わっている。この年は、システムを再構築した上に、現状のメンバーに最適化していたと思う。というか、そういった柔軟なシステムだったと思う。うちの艇では補助を多用していたのは個人の能力が足りなかったからだったはずである。もちろん漕ぎ等問題は山積みだったが。


あー、そうか。ここまで長く書く必要は無かったな。


チーバくんが「井上と石川も独自に研究してたらしいんだよね。」って言ってたな。


そもそも大川派自体、俺の考えなのか俺のやり方を外から見て理解した考えなのかが個人的に気になるというか後者なら恐ろしすぎる。


ま。去年他大と合同合宿して、いろいろ教わったらしいし。夏草や兵どもが夢の跡。違うか。



卒業した年、西川にシステム面を統一する事を提案したが、誰かに断られたらしい。それぞれ意見があるからね。


ここまで一発で書いたから、先輩らが見たら怒るんだろうなあ…。大久保さんとか。


まあ。一度石川千葉西川読んでチーバくん宅で映像見て話したのは、摺り寄せたかったのか、こうやって摺り寄せるんだぜって西川に教えたかったのか。…って、これは美化し過ぎだね。


やっぱり必死だったんだよね。余裕が無かった。先輩を批判しておいて、批判されたくないというのは筋が通ってないから、受け入れるけどね。