君はいう。何者かになりたかった。自分は何でもできると思っていた。

僕は言葉を飲み込んだ。自分について語るのは苦手だ。照れ、見栄、まともに自分を語れない。正確に伝えられない。せめて書くことくらいだ。語るよりは正確に描写できる。

何者ではなく、僕は少しだけ具体的だった。公認会計士になりたかった。だめだった。5年くらい受験したけど、てんでダメだった。未だにどれほどの真剣さでなりたかったのか、自分でも掴みきれない。退職した直後であったから、転職・就職活動の延長で受けていた。なれないのは悔しかったけど、まずは働かなくてはというあせりが優先された。それに、これ以上受験しても無理だろうという思いがあったし、客観的にみても無理だ。
努力を積み重ねる時間も金も気持ちも尽き果てた。
早い話が挫折をした。じんわりとではあるけど、自分の能力の限界、向き不向きを実感した。

犠牲は大きかった。あきらめて、別の道に舵を切れたのは、執着する気持ちすら失せたからだ。分限、身のほどを知った。

自分には特別な才能なんてなかった。経験や地道な努力をした結果しか出ない。経験や努力にも限界があって何でもできるわけじゃない。同時に、何もできないというわけでもない。

挫折が僕の自己承認欲求を一般のそれくらいには小さくしたと思う。年齢に応じた分別くらいは身につけたいと考えているから、我ながら悪くない経験をした。失ったもの、ことの方が差し引きで大きいような気もするけど、多少は自分に染み込むような糧になった。失敗からでも、何者かになるということはできると思う。当初自分の望んだかたちではないのが大半だけど。

現実と折り合いをつけるのも一つの才能だ。やれること、できること、多少は増やせるから。
等身大の自分って想像以上に小さいもんだ。それを認めて、地道に努力して、人生楽しんでいくしかない。
必要なのは他人からの承認でなく、自分はどんな人間なのかを受け入れることだ。