月光の夏、知覧特攻平和会館 | オレはこう思う

月光の夏、知覧特攻平和会館



10/18の夜、テレビをつけてみるとBS11にて平成5年の映画「月光の夏」を放映していたので見た。

毛利恒之氏の実話に基づいた小説を映画化

若き日の女性教師役に若村麻由美
晩年の女性教師役が渡辺美佐子
若き日の特攻隊員役に田中実
晩年の特攻隊員役が仲代達矢
他、田村高廣、山本圭、石野真子など出演

昭和5年、鳥栖町(現鳥栖市)の婦人会が「子供たちに本物のいい音を聞かせたい」と寄付金4500円を集め、ドイツ・フッぺルのグランドピアノを鳥栖国民学校に寄付した。

昭和20年5月の終わり、目達原(めたばる)基地から学徒出陣の2人の特攻隊員(特別操縦見習士官)が国民学校を訪れ、ピアノを弾きたいと言ってきた。
2人は上野音楽学校の学生で、出撃前に思い切りピアノを弾いて思い出にしたいと。2人の求めに応じ当時19才の女性音楽教師、上野歌子先生が楽譜を持ってくる。
1人はベートーベンのピアノソナタ第14番「月光」を弾き、もう1人が「海ゆかば」を演奏し、去っていったという。

時が経ちピアノが老朽化したため廃棄処分しようとしたところ、上野先生がなんとか残せないものかと願い出ました。
上野先生はずっと胸にしまっていた特攻隊員の話をされ、平成2.5.27に九州朝日放送のラジオスペシャルで「ピアノは知っている、あの遠い夏の日」(脚本、毛利恒之氏)を放送すると大反響を呼んだ。

そのピアノは、修復し保存されることになった。平成5年~7年まで知覧特攻平和会館に、現在はサンメッセ鳥栖に展示されている。

上野先生と2人のうち生き残った元特攻隊員が45年ぶりに再会
死にたくないと吐露していた隊員が英霊に、死ぬ覚悟でいた隊員は飛行機のエンジントラブルでやむ無く引き返した。
「私は生き残ってしまいました」
「よう生きとってくださいました」

上野歌子先生
「月光を弾きて往きたる特攻の
思い語るか古きピアノよ」

上野先生は平成4年に、元特攻隊員は平成14年に亡くなられた。

この話から帰還特攻隊員を収容した「振武寮」の存在が明らかになる。
福岡の陸軍第6航空軍司令部内にあり、エンジントラブル、天候不順などの理由からやむ無く引き返した特攻隊員を収容し、精神の修養をさせたという。
この振武寮の存在は他の隊員の士気にも関わるため軍の機密とされていた。
軍神となるはずの隊員が生き残っていれば、卑怯者、国賊呼ばわりされることもあったという。
生き残った隊員の気持ちもどれだけ苦しいものであったことだろう。振武寮で情けないやつと言われてしまう。世間に向ける顔もなく戦後は黙っているしかなかった。
振武寮を統括していた倉澤少佐は生き残り隊員からの報復を怖れていたという。





映画の放送画面より



知覧飛行場跡



鹿児島県南九州市
知覧特攻平和会館

自分も1度は行ってみたいと前から思っている所

沖縄での特攻作戦では、九州、山口、沖縄、台湾の飛行場から出撃し、計1036名が英霊となられた。
そのうち知覧から出撃した隊員が最も多く439名である。

九州から出撃した部隊が振武隊、台湾から出撃した部隊が誠飛行隊である。


参考資料
知覧特攻平和会館ページ
鳥栖市ページ
エッセイ「戦争を知らない世代から」
Wikipedia