日暮里~谷中霊園② | オレはこう思う

日暮里~谷中霊園②



谷中霊園には徳川家墓地がある。
徳川家墓地、さらに慶喜墓



徳川慶喜墓
(左側)







これは大原重徳墓






長谷川一夫家墓所




楠本正隆墓にある説明書き

楠本正隆とは
1838-1902、幕末の倒幕運動にも加わった大村三十七士の一人
長崎県大村市には旧楠本正隆屋敷がある。
新潟市の白山公園には像がある。

国立国会図書館近代日本人の肖像より
大村藩の藩校の監察を努め、尊攘倒幕運動の高まりの中で藩の中老として活躍。明治5年、新潟県令となり、県会開設、地租改正事業推進の改革に努め、名地方官といわれた。地方官会議の幹事、内務大丞を経て、10年には東京府知事となり、市区改正等を行う。
12年、元老院議官、その後副議長。23年第1回総選挙で衆議院議員に当選。26年には星亨の後を継いで衆議院議長に就任。都新聞社主、社長も努めた。29年男爵。




ヘルマン・リッテル博士顕彰碑

1827-1874
「我が国における近代化学教官、創建期に大きく貢献した人物である。はじめ金沢藩の招聘で来日したが、たまたま廃藩置県の施行にあたり明治政府のお雇い外国人教師に就任した。明治3年のことである。
日本化学教育の祖といわれるハラタマ(オランダ人)の後任として大阪理学所(後の京都大学)で理科学を教授。
1873に上京し開成学校(後の東京大学)で鉱山学の教師となるも、1874、天然痘のため、47才の若さで逝去した」




花岡真節(はなおかしんせつ)碑、1839-1884
「谷中過去帳より
医家。長野県の人。静岡県士族花岡吉次郎の男。姓は藤原、字親卿。17才で江戸に出て医学をはじめ桐原鳳卿に師事。のち林洞海、大村益次郎、坪井信道らに就いて学ぶ。
22才のとき鳳卿の養子となる。松本良順に幕府の命により長崎に赴くとき随行し、蘭医シーボルトの指導を受ける。慶応元年医学所教授。
明治2年、永松東海と東京大学医学部助教授に任じ、解剖学を講じる。のち文部省7等出仕。10年東京大学医学部4等教授。すぐ医学部教授となる。14年ころ花岡姓にかえる。17年第1病院長兼務。長子武一郎、門人に岡玄卿あり」



塩谷宕陰(しおのやとういん)碑
1809-1867
「谷中墓地掃苔録より
羽後大館の人、林桃蹊の子として江戸愛宕の山下に生まれた。名は世弘、字は毅侯。通称甲蔵。別号を梅軒・九里香園。
16才で昌平黌に入り、松崎慊堂のすすめで水野忠邦に仕え、侍講となる。忠邦はその学識と直言を愛し、世子忠精の指導を託し。天保の改革にも参画させた。阿片戦争のニュースを聞き、『阿芙蓉彙開』などで海防を論ず。ペリーの開国要請に関しては資料を整える。また軍艦建造で具申、のち幕府儒官となるが慶応3年、59才で没した」







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