昨年正月に実家へ帰った際、母から

「鯖江のあんちゃんが植物状態なんや」

と告げられる。伯父は長男で母の実家を福井の田舎で守っていた。新卒で私が就職する際に保証人になって貰った。高齢がゆえ、死期が迫るのは運命といえど、残された従妹は、延命を選択した。しばらくして、伯父の意識の戻らぬまま、おばさんもこの世を去った。それは家族も望むべき本来の姿ではなかったであろう。

 

盆には、母に手を引かれ私達兄弟は大阪から帰っていた。この時期に先祖が帰って来ることは、自然に受け入れていった。祖母が不揃いに切った晩生の西瓜を、無心に被りつき、縁側で盥に向かって種を飛ばす情景は今も忘れることはない。

「川の水で冷やしたから甘いんやで」

と言われ、子供ながら妙に納得したというか、それを信じて疑わなかった。

 

閉鎖的な片田舎なのか、法事は毎度のように出席させられた。

「戦死した兄は立派な人だった」

北陸訛りの強い言葉で、昭和の終わり頃だったか、平成の始まり頃か、親戚の会話の中からそう聞こえてきたのを鮮明に覚えている。

「年寄から先に死ぬんや。死んだら冷たくなるんやで」

小さい子供達に大人達は、神になった死人の手を握らせ伝えていた。住職の説法で

「肺炎は自然死に近く、身近に寄り添える」

と私は徒然と正座して聞いていたが、当時は何を言っているのか意味がさっぱり分からなかった。葬儀を終え、宴会で騒ぎ酒盛りする大人達は、どこかしら前向きな哀しさもあり、墓前で泣いてくれる人生で終えたいと幼いながらも私は強く思い、この時保守の源流を覚えたにちがいない。家制度に強い憧憬を抱くのは、二十年を過ぎようとしている私の一人暮らしがより拍車をかけているのであろうが―。

 

我社の店頭に置いてあるアルコール噴霧器が、二度年寄に盗まれた。全国的に業務用のそれが不足している時期で、割り当て出荷されたものは、たった半日で無くなることとなる。一度目は防犯カメラでの確認に留まり、二度目に私が捕まえた。必死に狼狽し老醜を晒すその姿に何の感情も抱いて来なかった。生の為なら公よりも私を優先させることは、今の日本そのものを映しているのである。たとえこの数滴の殺菌で生き長らえたとて寝覚は悪かろうと、愕然としたのであった。この頃から一斉に、各小売店の店頭にあるアルコールは、強固な鎖でガチガチに固められた。その事実は、被害の大小あれど全国的に起こったのである。個人主義を優先する世の中が平常となってしまったのであった。

 

コロナ茶番が未だに終わりが見えそうにない。非科学的な感染対策とやらは、現役世代に大きな負担を強いられる。当初、私も怖かった。ジムではノリの良い洋楽が流れ、ダランと天井からぶり下げられた剥き出しの大きな羽根が南国を思わせ魅力的だったものが、ひたすら感染対策の放送がお経のように流れ、業務用の無機質な巨大扇風機を、あろうことか外に向かって回し続けるという異様な事態で、マスクは義務付け、相互に監視され密告された。どう見ても免疫が強かろう立派な躰の持ち主の連馴染みの連中は、程なくして来なくなっていった。私もダンベルを握った瞬間、ジワジワと恐怖のウイルスがを不気味にせり上ってくる錯覚を覚え、全く力を込められない日々がしばらく続き悶々とした。大浴場でもマスク姿の会員が散見されたのは、嘘みたいな本当の話だ。

 

今の大学二回生は辛かろう。我社のアルバイトも入学以来、ほとんど登校していないという。リモートという響きの良い言葉は、感染拡大阻止という大義に、教授も大学側もこれに味を占めたのである。

「学費は変わらんの?」

「同じです。使っていないのに設備費用とかも同じです」

卒業さえすれば良いという親の意向もあるのであろうが、生命至上主義の世界にとって、夢見たキャンパスライフでの学びや人との出会いの機会の喪失などはどうでも良い。人的交流の必要性など彼等にとっては全く関係無いのである。

 

兎我野の木賃宿が並ぶ通りを歩いていると、マスクをずらして求めてくる。強度の鼻炎持ちは呼気が薄くなりがちで、その為に大のマスク嫌いは言うに及ばず、基礎体温の高さは、この時期でなくとも暑苦しい体型がゆえ汗をかくと痒くなる。しかしながら、

「ここでは着けてる方がええねん」

意に反して私が言おうが、火の点いた彼女にとってこの場合は関係は無かった。年の差カップルが多いこの小路は、欲に駆られた街並みも相まって、顔を隠すように人知れず陰にそっと消えて行く。きっとお互いが陰性証明を出し合って、舐り合い情交を重ねていることだろう。もっともイソジン様が殺菌してくれていることだろうに。

 

実勢で二割程に落ちた観劇日数は、滞在時間も一回りにも満たないことも多々ある。月に一、二度程度、時間にするとピークの一割にも満たないのではないかとさえ思えた。踊り子が新作を出しているという情報を得ようとも、その一巡で観るものが旧作であったとしたら、それは「絵が合わなかった」と諦めざるを得なかった。東洋の感染対策は称賛をされているが、過剰がゆえ絶え難く、従業員のOJTの悪さは日に日に増している。それでも数多の客入りを誇るのであるから、私の方が間違っているのであろう。

 

鼻の下を伸ばしている姿が雑巾のようなマスク越しでもそれは現れ、エロ写真を撮っている連中を、縷々と続く後方からタラタラとした順番待ちに愛想が尽きそうになるのを只管俯瞰して私は待っている。

「このジジィも救わなければいけない命」

自身に言い聞かすが、強く握り拳を作り心中では舌を出している。

「現役世代が年寄を助けないといけませんからねぇ」

常連と思ってもいないこと言い合い

「ジジィと若者の時間は等価ではあるまい」

何度も吾に問いかける。毎月十数万の天引きが、今後どれだけ増えるのかと思うとゾッとし寒気を感じる。優しさには金がかかかるというのを絶対に忘れてはならない。


 

夕餉の支度が待ち遠しかったあの日。二年に一度はインフルエンザに罹った。その時、母は私に厚着をさせ、火燵の中に横になっていろと、毎度の如く強制的に入れられていた。その時、幼いながらも折檻されていると思っていたが、汗をかけば治ると母が言うものだから信じるほかはなかった。弱い個体から風邪を引いていく。公衆衛生はその免疫すら否定をする。そして今は延命しか許されない社会となってしまった。もはや職域を受けていないのは、今や私だけとなってしまった。後輩には

「亀頭の感度が上がるなら受けるねんけどなぁ」

と笑っているのであるが、全体主義に似た空気がそれを許すまじとなっているのを肌でひしひしと感じている。

「もし休むことになったら、迷惑かかりますからねぇ」

聞かれればそう惚けている。

「国産も出そうですし、経口薬も出来るみたいですよ」

と言えば大概これ以上突っ込まれない。嬉々としながら副反応の報告会など参加する気になれない。一度だけ尋常でない程勧めて来る上司がおり

「まず、任意ですね。あと、m-RNAってわかります?体に異物を入れるのなら普通調べますよね?」

TVで言ってたから」

「あぁ、そうですか」

白痴には大きな声で何度も繰り返し、恐怖や不安を煽り続ければ良い。さすれば扇動され、見えないものには恐怖を覚え続ける。布切れ一枚で防げると思っているお花畑のオツムの民には容易に支配出来うる。国境を越え、県境を越え、今ではウイルスは夜行性となった。「年寄にワクチンを打って終わり」というのはもはや幻想となってしまった。メディアと学者が言う「無症状の後遺症」という謎の日本語を聞いた時、私の中で何かが弾けた。死に至る病とされていたものが、己の小遣い稼ぎの為に、ゴールを動かし続けることに私には同意出来ない。

 

自死寸前にまで追い込まれれ関東の知人には、

「お酒飲むぐらいの金額分、いっぱい食べてあげる。その代わりにたんぱく質多めに作ってね」

と言うと苦笑いしていた。幼い子を抱え、脱サラしてやっと得た店は今や閑古鳥だ。明るい兆しは見えてこない。決まった。私はもはや何の緊張感も無い東京へ行くのだ。年に一度の旅路のスケジュールは密々になればなる程良い。少しぐらい夏休みもあっても良いだろう。そしてまずは渋谷のお盆興行だ。

 

引っ越しの際、駅から遠い方が安かろうと静かな所に場所を決めた。何人かに

「絶対後悔するから止めとけ」

という忠告を無視し

「移動は全て車やからなー」

と意思を貫き通した。最寄り駅が徒歩30分にも関わらず、始発に乗ろうとするからいけなかった。この時だけはいつも後悔する。無理やりシフト休みを繋ぎ急遽二連休を取ったが為、前日がタイトになった。すなわち16時間程働いた後、あたかも時間を惜しむかのようにそこから深夜のジムに向かい、その狂気の行動で自身に悦に浸り、それが気合が入るから体は不思議なものだった。

 

一昨年夏以来に、私は大阪モノレールに乗り、車中の人となった。一列に並び、林檎を噛った筐体を無表情にやおら眺めるスマホ図書館は、付和雷同の美学に変わりはない。

「なんとも気持ち悪い光景だなー」

席へ着きゼロコーラを口に含んだら、走ったためか炭酸でむせり、大いに咳こんだ。その時一斉に睨まれるたものだから

「おぉ、感情あるやん」

と見込通りの結果となった。遠足の前日に眠れぬ小学生のように、どんな風に眠りに落ちたのかわからないが、アラームが鳴る前に起きたのは昂っていたのであろう。そして案の定、新大阪も品川も寝過ごしてしまう。

「渋谷は寝落ちしても環状線だから大丈夫」

と思ったが、一応一度で降りれた。しかし、何度も来ているはずであったが、ハチ公前とは逆側に降りてしまい、走り回った。当然狙っていた正面であるEDのリハビリ席など獲れる筈も無く、三列目を確保した。渋谷は席間が狭く足を閉じていれば辛くなる。だが若干の狭さはこれから繰り広げられる演目で忘れさせてくれようと思った。

 

さゆみちゃんの演目をほぼ網羅している私は、一瞬で新作かどうか判断出来るのであるが、青の着物で出てきた時は

「夏の新作が着物?暑苦しい。他の踊り子は夏の演目で決めているんだぜ」

と正直思ったのは事実だ。しかしながら両手には日の丸の扇子を持ち踊る姿は躍動する。そこから大和撫子は十七変化していく。今夏、最も日本を熱くさせる祭典と言えば、国威高揚させる東京オリンピックであろう。

「平成最高、令和最高、それでもニホンが愛してます」と踊るさゆみちゃんに、ここまで琴線に触れ、ここまで仰望する演目とは思わなかった。令月に気淑く風は和らぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は後の香を薫らす。残る悔いは要らない。そして令和にバトンを繋いでいく。

 

前巡プレゼントした桃色のスポーツTシャツに金メダルをぶら下げていた。

「どうだった?」

と大汗かいて聞いてくるさゆみちゃんに

「出会って三年目ぐらいから1位ですから、今日で2大会連続金メダルです」

と言うとさゆみちゃんは笑っていたから、私の観方は違ったのかもしれない。二年前の夏の渋谷で「サザン」の再演を期待し赴いたものの、それに引けを取らない程の震える演目というのは異論はあるまい。陛下の開会の挨拶の後、ソロでこの神事の舞を観たら、各国で話題になっていただろう。否、大舞台だから、さゆみ監修で群舞で魅せると方が良いのではないかとさえ思え、想像が膨らむことが尽きることはなかった。

 

三巡中頃、京都からの知人も駆け付け、長いポラ待ちも苦になることは無かった。気が付けば前回の渋谷以来のオープンラストと私自身が一番驚いている。終演後、滾る気持ちは、直ぐに眠りに就くことは出来まいと、渋谷近くのオールナイトのジムに行くと言うと知人は呆れていた。寝る間を惜しむというより、眠る時間などいならい状況は脳内の快楽物質の汁が幾重にも交錯したのであろう。精神状況がトランスに入り、疲れを全く感じないのである。

 

トレーニングを終え、定宿としている道玄坂を上がったところにあるカプセルに、爪楊枝を刺したら乳酸が出てきそうなぐらいパンパンに膨れ上がった重たい体を引きずりながら大きなかばんを持ち、私はゆっくり歩いていた。

「開いているところは開いているなー」

遅い晩飯、出来ればビールでもと思っていた。さゆみちゃんから

「書かないの?」

と聞かれ

「もう書くことはありません」

とやんわりと私は応えたが

「一度観ただけで書けるのが物書きさ。されど曲がわからん」

アテは先程まで観た演目で、一晩中でも飲めそうな気がした。

 

「ヘイ、ビッグボーイ」

矢先、甲高い声が響いた。

40を過ぎたおっさんにボーイはねぇだろう」

その時、外人三人組に声を掛けられた。一瞬、絡まれたのかと思ったのだが、睨むように彼らに目線をやったら、急にハイタッチを求めて来たものだから、私は条件反射で応じたのであった。

「イズザ、ジャパニーズサイトシーン、ウエル?」

語尾を上げれば伝わるだろうと、咄嗟に出た私の英語がそれだった。

「イッツア、ベストフィーリング」

そう言うな否や、抱き合って来るのは国民性によるのものだ。

「今じゃ、劇場はハグはおろか、握手すら出来ない程の薄い交わりしか出来ないんだぜ」

スパイシーな体臭と安い香水、それに加え酒の匂いが重なり、吐き出される呼気は一瞬で日本人のそれとは違うものと鼻の悪い私にでさえ容易にわかった。渋谷という土地柄、それは何もかもが魅力に映り、日本人でさえそう思える。

この国にユメがあるのですね?

両手を振って互いの旅の成就を思い別れた。

 

サウナで汗を流し、旅路に水を差すような虚しさに苛まれそうであったが、窮屈なカプセルでAVをイヤホンで聞きつつ、ぼんやり眺めていた。その刹那、両脚が攣ると事態に見舞われた。渋谷の席間の拙さで血流が制限されていたこともあったのかもしれない。どちらに曲げたら痛みが治まるか焦ったが、暫くし動かせるぐらいにはなり冷静さを取り戻した。そしてさすがにこんな所でアヘアヘしていたら惨めになるだけだろうと、雑魚寝の大部屋に移動した。

「何か前回来た時と同じだな」

一昨年と同じデジャヴを覚えながら、自販機のカップ酒を求め、一気に飲み干した。もうすぐ日本の夜明けが来ると思いつつ。

 

20218中 渋谷道頓堀

(香盤)

1.美月春(道頓堀)

2.悠木美雪(TS

3.ささきさち(道頓堀)

4.石原さゆみ(道頓堀)

5.宇佐美なつ(道頓堀)

 

4演目:石原さゆみ

3演目:宇佐美なつ

2演目: 美月春/悠木美雪/ささきさち

 

観劇日:8/13