「宗教哲学」

 

Ⅰ キリスト教による普遍性の獲得

 

私たち人間にとっての宗教の要件は、独自の教典・教義と最高神や始祖への信仰心である。しかし、この信仰という営為において、人間の存在とその在り方についての広い思索と深い洞察も行われるものでもある。

 今日において信者数が世界最大となったキリスト教は、主(神=エホヴァ、ヤハウェ)、預言者(イエス・キリスト)、教義・教典(新約聖書)を持つ。その教義の本質こそ、愛(アガペ-)なのである。

 ユダヤ教を母胎として創発展したのがキリスト教である。このユダヤ教の旧約聖書やタルム-ドの中心思想は、律法(ト-ラ-)を主柱とした、社会的・倫理的・宗教的な行動規範であり、非常に厳格な戒律であった。

 しかし、イエスは人間の内なる精神の源泉において、愛(アガペ-)を中心とし、神の愛、神への愛、隣人への愛という、無償の愛による信仰を説いたのである。

 ユダヤ教がイスラエル民族に限定された信仰だったことに対して、イエスの教えは個人の救済といわれ、人種や民族、身分や階級の差に関係なく、つまり、価値があるなしに関わらず、あらゆる人々、社会的弱者や差別・疎外される者に対しても、無差別に深い慈悲と平等性をもって、愛による神と他者との関係性を説いたのである。このことこそ、時代や地域を問わず、絶対性と普遍性を持ち得ながら、徐々にではあるが、多くの人々に信仰されることになったのではないだろうか。

 さらに、イエスの死後、イエスの復活信仰を中心としながら、回心した使徒パウロらによって、福音(悦ばしき知らせ)として伝道されることで、原始キリスト教が形成確立してゆく。このパウロの教えこそ、贖罪の思想(イエスの死は人類の罪の贖いの行為)、信仰義認説(罪の意識から、人が救済されるのは信仰による)、三元徳(信仰・希望・愛の道の実践)といわれるものである。

 その後の歴史的過程における時代背景の中で、教会組織の分裂や発展などの変遷を辿りながらも、敬虔な信者の布教活動により世界各地へ拡大してゆくこととなる。このことは、他者からの強制力としてではなく、また、厳格な戒律としてでもない。それは、人間の存在についての根元的で純粋的な愛をもった新約聖書に基づいた教義こそ、普遍的で超越的なものとして、時代と地域を超えながら、人びとに理解され受容された要因なのである。

 

 

 

Ⅱイスラム教の教義

 

 紀元六一〇年に神の啓示をうけたムハンマドが開祖となり、当時のアラビア半島での社会的、政治的な不安定な状況に対して、唯一神アッラ-への絶対的帰依を説いたのがイスラム教である。

 この唯一神アッラ-とは、イスラム教が「啓典の民」と呼ぶユダヤ教やキリスト教の「神」と同じである。このため、人間が帰依し信仰すべき対象は神のみであり、偶像崇拝を堅く禁止したのである

 神の啓示がムハンマドの肉体を通じて語り掛けた言葉を、信者や近者が書き留めたものが聖典「クラ-ン(コーラン)」である。この「クラ-ン」は、ムハンマドが存命中に授かった啓示や彼の活動を、のちの三代目カリフ(後継者)であるウスマ-ンのもとで編纂されたものである。また、ムハンマドの言行に対する伝承「ハディ-ス」も併せて、イスラム教の教義の中心となる。この「クラ-ン」が教示することは、神の唯一性(タウヒ-ド)や、イスラム教徒(ムスリム)にとっての道徳的行為規範である。これは、ユダヤ教の「選民思想」やキリスト教の「三位一体説」と明確に異なるものである。

 この「クラ-ン」におけるイスラム教の教義の本質こそ、神の恩恵が必要とされる人間の弱さと無知さを認め、すべてを超越した神の存在、全知全能の神の意思を絶対視する。また、イスラム教にも終末思想や最後の審判があり、神への信仰と善行により来世における救済が得られると説いているのである。

 さらに、具体的な信仰上の主柱が「六信(神・天使・啓典・預言者・来世)」であり、宗教的実践項目が「五行(信仰告白・礼拝・断食・喜捨・巡礼)」となる。この「六信五行」こそ、イスラム教徒の生活信条となる。

 やがて、アラビア半島から拡大してゆくイスラム教は、独自の緊密な宗教的共同体(ウンマ)という同胞意識に支えられながら、教義や法学の研究により、シ-ア派やスンナ派などの系統・継承の違いで分派もする。さらに、イスラム法を制定し、強固な信仰に基づいた社会と文化を築き上げてゆく。

 イスラム教の教義の根底にあるものこそ、人間の弱さとともに、すべてを超越した唯一神アッラ-の意思の絶対性であり、キリスト教やユダヤ教と共生しながら、異文化の社会へ受容されてきたのである。

 

 

 

Ⅲ 仏教とキリスト教の相違点

 

 古代における人間社会においても、自然の営為や生命の生成に対し、その意味や価値と、人間自身の存在や在り方についての深い思索を重ねていた。その中から、自然・気候・風土などを基底として、独自の宗教を形成させた。西洋では神の啓示を受けた預言者により、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教などが生まれ、東洋では古代文化(ヘブライ文化)が発展したインドにおいて、釈迦(ゴ-ダマ・シッタ-ルタ、釈尊)により、仏教が創始されたのである。

 キリスト教の成立した思想的背景は、ロ-マ・ギリシアのヘレニズム文化の中心となるギリシア哲学である。このギリシア哲学の思想こそ、事物や事象の根底にある存在の本質を問うものである。この究極の存在として、唯一神である主(人格神)があるのであり、主の教え(教典としての新約聖書)に対する信仰がキリスト教なのである。

 一方の仏教は、古代インドのバラモン教(カ-スト制度の司祭階層であるア-リア人が、聖典ヴェ-ダによる祭祀中心の民族宗教)やウパニシャッド哲学(輪廻転生からの脱出である自己の本質:我と、宇宙の根元原理:梵との合一を説く梵我一如の思想哲学)を社会的文化的宗教的な成立の背景としている。

 この時代背景の中から、釈迦が覚りの境地に達した上で、絶対的・普遍的な万物の法(ダルマと呼ばれる物事の真理・本質・原理・法則・摂理など)を獲得し、この世の輪廻から解脱することを、人間のあるべき姿として説いたのである。開祖釈迦とその子弟に編纂された幾遍の解釈が仏教の教えであり、人間の四苦八苦からの解放のため、縁起(因縁生起の法則:事物や事象の相互の関係性)を知り、四法印(一切皆苦・諸行無常・諸法無我・涅槃寂静)を命題として、四諦・八正道を実践的方法としているのである。

 やがて、初期のサンガ(僧伽、教団)にみられる三帰依(仏・法・僧=三宝)を唱え、五戒(殺生戒、愉盗戒、邪淫戒、妄語戒、飲酒戒)を授かる生活から、歴史的発展過程の中で、部派仏教といわれる様々な流派・分派を形成してゆくことにもなる

 仏教とキリスト教の根本的な相違こそ、これらのような仏教が宇宙・生命・自然の摂理(法=ダルマ)を解釈し、その思索に基づきながら、人間の在るべき姿を実現してゆくための実践的思想を体現してゆくことこそ、仏教への信仰とするものなのである。

(2)日本の仏教のそれぞれの宗教上の違いについて800字で指摘せよ

 

 日本の仏教は、伝来された奈良時代では教義・教典の学問的研究が中心となり、国家鎮護を願う支配者階層(貴族)のものであった。平安時代には、空海(天台宗)と最澄(真言宗)により、教義の系統的研究が進展しながら、民衆の間に現実生活の平穏と死後の霊魂の救済として普及してゆく。そして、武家社会となる鎌倉時代において、一般庶民への社会的教化を果たした多くの開祖が登場することで、以降の日本仏教が確立されてゆく。

 日本仏教を大別すれば、他力教(浄土門)と自力教(聖道門)である。前者が専従念仏を唱える親鸞の子弟による「本願寺教団系」と、法華経の題目を唱える日蓮系の「法華宗教団」である。後者は座禅における修養を中心とする「禅宗系」となる。しかし、宗教上の明確な相違点はないのではないだろうか。

 日本仏教が、儒教や道教と融和された中国仏教を経由し、さらには、日本古来の土着の文化的風土に培われた習俗とも折衝しながら受容されたものである。その後の歴史的、政治的、社会的、文化的な背景により変遷はあるものの、既存教団や新興宗教などにも、本質的には大きな相違は見受けられない。

 それは、日本人にとっての仏教、つまり宗教が、その内面性における思索や思考の源泉を形成させたものであり、宗教観・死生観・生命観・人生観ばかりか、道徳・倫理・価値・意識などの基礎を築き上げたものである。その精神活動の深層において、善とは何か、真とは何かという問い掛けを迫るものでもある。

 欧米の宗教(キリスト教やイスラム教など)は、超越的絶対者(神)への信仰である。しかし、日本の仏教が、あらゆる事物や事象の根元的な法・摂理・原理に基づいた、実践的思想といわれことこそ、人間が事物事象の本質を探求する哲学や倫理学とも共通していると考えられるのである。

 

 

 

Saturday.10.Feb.2024.

No.1043 to be continued…