聖徳太子が開いた寺と言われています。
589年円明天皇二年、四天王を建てるための建材を求め、聖徳太子がこの地を訪れた。
太子はそこに生えていた多良の木に護持仏をかけて、湧き出る泉に入った。
沐浴し終わって護持仏を手にすると、どうしたことか枝から離れようとしない。
するとその夜、夢の中にその護持仏が現れて「この地に留まって、衆生を救いたい」と告げられた。
太子の護持仏は御丈1寸8分(5.5cm)の如意輪観音。
如意輪とは如意宝珠法輪のことで、思いのままに珍宝を出す宝珠に、煩悩を砕く法輪の力が備わっている。
つまり、人々の苦悩を救い、知恵や富や力を願いのままに授けられる。
右手にかしいだ物思う表情は衆生救済の想いに耽るさまを表す。
それで太子は護持仏を安置する観音堂を建てた。
それが「六角堂」である。
この池の近くに小野妹子を始祖とされる僧侶の住坊があったことから「池坊(いけのぼう)」と呼ばれるようになった。
池坊の祖先は、朝夕宝前に花を供えてきましたが、ついには代々生け花の名手として知られるようになり、生け花が広がりました。
六角堂に足繁く通い、観音さまに一つの願い事をする。
それは「心の美しい容姿も端麗な妃を迎えられますように」というものだった。
ある夜、嵯峨天皇の枕元に六角堂の観音さまが現れ、
「明朝、六角堂の柳のもとにいる女こそ、あなたが求める妃となる者」と告げられた。
明け方、六角堂に行ってみると確かに、ひとりの女が立っていた。
天皇はすぐさま宮中に迎え入れ、深く愛したという。
「地ずれの柳」は天皇が愛する人を見つけたことから、縁結びの木となっている。
平安京造営の折、六角堂が東西に走る予定の道にあたってしまった。
桓武天皇が使者に向かわせ、南北どちらかに移動するように祈願したところ、周りに黒雲が立ち込め、北に15cm移動したが御堂があった場所に礎石が取り残された。
以来、礎石は明治時代頃までは、御堂の前の通りにあったが、道の妨げとなることから、境内の中へとさらに移された。
京都のほぼ中央にあたることから「へそ石」と呼ばれている。