休憩室のゴミ箱が、また溢れていた。
おそらく気づいている人は、自分だけではない。
でも、片付けるのはだいたいいつも同じ人だ。
こういうとき、職場ではよくこんな言葉が出てくる。
「気づいた人がやればいい」
一見すると穏当で、揉め事も起きにくい。
実際、そうやって回っている職場も多い。
でも、ふと思うことがある。
それは本当に公平なのだろうか。
気づく人、気づかない人、やる人
同じ空間にいても、人によって見えているものは違う。
ゴミ箱が気になる人もいれば、気にならない人もいる。
気づいていても「まあ誰かやるだろう」と思う人もいる。
結果として、職場にはいつの間にかこんな役割が生まれる。
気づく人、気づかない人、気づいてもやらない人、気づいてやる人。
そして多くの場合、最後の人がやり続ける。
話し合いで決まった役割ではない。
ただ行動の積み重ねで、静かに固定されていく。
善意が問題を隠す
小さな問題は、誰かがその場で処理できてしまう。
だから問題として残らない。
ゴミ箱が溢れれば、誰かが片付ける。
その瞬間、問題は消える。
でも実際には、問題が解決したわけではない。
ただ、誰かの時間の中に吸収されただけだ。
これは善意の搾取ではない。
誰かが「利用してやろう」と思っているわけでもない。
ただ、いくつかの無意識が重なる。
今忙しいから。あの人が気にするタイプだから。誰かがやるだろう。
気づけば職場は、善意に依存する構造になる。
そしてその依存は、ほとんど無意識のまま続いていく。
やめて、投げた
ある時から、すぐにはやらないようにした。
自分がやり続ける限り、この構造は誰にも見えない。
しばらくして、上司に言った。
「いつも決まった人が処理してますよね。みんな見て見ぬふりしてませんか。それなら当番制にした方が公平じゃないですか」
仕組みは変わった。
仕組みの中で、また同じことが起きた
当番の時間になれば、当番が処理する。
それ以外の時間は、また溢れていく。
そして気づいた人が、また処理している。
仕組みを作った側は、それを見ているだろうか。
誰かに話を聞いたか。
なぜこうなっているか、考えたか。
それはなかった。
瑕疵のある仕組みが放置されて、結果としてまた善意に委ねられている。
だから今、触らない
気づいている。溢れているのも見えている。
それでも触らない。
触ったら、また善意が仕組みを飛び越える。
仕組みにした意味が、静かに溶けていく。
声を上げても、権限を持つ側の認識は本質的には変わらない。
そのことが、ゴミ箱ひとつでわかった。
善意が何を支えているのか。
それを見ようとしない場所では、気づく人間が静かに消耗していく。