美味しいご馳走を食べても

 

観光地に行っても

 

高級なホテルやレストランに行っても

 

大好きな音楽を聴いても

 

 

 

だんだん、心が動かなくなった

もっと言えば

喜びを以前より感じなくなっていった

 

 

 

おかしい

そんなはずはないって思いました

 

 

 

 

物事への感謝が足りなくて当たり前になってのか

もしくは慣れてきたのか

 

 

そうして感謝をしようと

感謝を努めようとしたけれど

やはり以前のような喜びを感じない

 

 

 

じゃあ、幸せの感度が薄くなってしまったのかなって思いまして、

一つ一つに集中して感じようとしてみました。

 

そうしてみると、

今にはいられるけれど

以前のような子供が冒険に出るような

お誕生日のケーキのような

駄菓子屋で好きな駄菓子を買ったような

夢中で川で生き物を探したような

 

そんな

喜びや幸せを感じていない。

 

 

 

 

そうして

なんだか抜け殻になってしまったかのような

自分でもよくわからない状態を繰り返し

とうとうわかってしまった。

 

 

 

今はもう、

現実と気分がほぼほぼ切り離されていることに。

僕は、後退しているとずっと思っていたけれど

実際は想像を超えて前進していたことに。

 

 

 

どんな素敵な現実が起きても、僕の感情は左右されない。

逆も然り。

そんなふうに、今の僕はなっていたのだ。

 

 

 

自分で、こんな気分を感じようとする

それだけが僕の気分を決めていたことに。

 

 

 

この人生で自分と向き合うことを続けて、今やってきた境地は

残念なものだと思っていたけれど

昔の自分からみれば

想像を超えて宇宙人のような境地にいるのだと気づいた。

 

 

 

 

物事は、出来事は

僕を幸せにも不幸にもしない。

いや、正確に言えばもはやできなくなっている。

 

高級ホテルに泊まっても、全くお金がなくても

心は全く同じ状態の自分の不思議さに気づいたように。

何をみても聴いても、心の水面が鏡のようにないでいる。

 

 

 

僕が何かを感じるのには

こんな気分になりたいなと、

その気分にフォーカスすることが大切になった。

 

 

 

現実の世界と

僕の気分にコネクションがなくなってしまった今

 

 

 

 

僕の望んでいたのは気分でした。

こんな気分を感じたいと思えば、

食べているものが高級レストランでも駄菓子でも全く関係なかった。

誰かといても一人でいても全く関係なかった。

 

 

 

理由が欲しかったんだと思う。

感謝する理由が。

喜びの理由が。

それが、現実世界という仕組みを体験するものの

ようにも思えます。

 

 

 

だけど、今僕は思います。

理由がないって。

何に感謝してるのかわからないけれど、ありがたいとか。

なんでかわからないけれど、豊かだなあとか。

知らんけど、寂しいなあとか。

 

 

 

自分のうちと外は一つで、内側の感覚が外に現れるなんて

言い方がよくあるけれど。

 

なんだか、内側(感情、体感)と外側(現実、事実)は

キリなはされていて関係がないようにも感じます。

 

 

 

そう感じる対象がない

理由がない

条件がない

いらない


感情に理由はなくても

おかしくない



なんとなくうれしい

なぜかムカつく

わかんないけど涙出る


気分は現実には

ない。



 

 

 

僕はどうなってしまったのだろう。

 

 

僕はもうすぐ死んでしまうのだろうか。

 

 

そして、生きるのも死ぬのも同じようなものだと

感じるようになった。

 

 

 

生きながらにして

ここまで気付きを続けてきた自分を誇りに思います。

嬉しいなって。

 

 

 

 

僕は神様だったことを

同じところをぐるぐると迷走しているようで

それは実は螺旋になっていて

ちゃんと思い出していく

 

 

後退しているように見せて

 

 

 

 

 

 

 

 

あなたはいま、

大気圏を完全に突き抜けて

宇宙の源とともにある

 

 

 

 

 

 

今、目を軽く閉じ

僕は平和の感覚を感じようとしている

 

 

平和は僕の中で体からイメージとして

周囲に広がっていく

 

 

モンゴルの高原のような草原を

柔らかな光と風がなでている

 

僕のそよぐ髪のすぐ横を

小さな白い蝶々が飛んでいった。