経済産業大臣政務官としての私が当時知る限りでは、という注釈を付けさせて頂き、原発事故発生初期段階のことを振り返ってみたい。まず地震発生の一報を私はインドへ向かう機内でパイロットから受けた。その後、インドから同じ飛行機に乗り翌日12日午前に帰国。成田で5時間足止め、何とか12日の15:00頃に総理官邸に入り、その後3、4日間、海江田経済産業大臣と行動を共にした。

 私が官邸にいた最初の3、4日間、福島原発を巡る総理官邸の空気は、文字通り極限まで緊迫した状況が続いた。日本は一体どうなってしまうのか、と正直、ときに恐怖感も募らせた。そんな中、必ず会議に同席されていた原子力安全委員会の斑目委員長、久木田委員長代理は、周りの空気からやけに浮いて、ゆったりとしていて、その言動からは危機感をさほど共有されていないような印象を受けた。ベントや水素爆発という言葉が飛び交う様々な議論の場に私も同席したが、原子力の専門知識が全く無い自分は、余り貢献できない。むしろ専門性を噛み砕いての、一般国民への「情報公開」ということが最初から気になっていた。「およそ行政府は国民への情報公開が苦手である」私は常々そんな風に感じていたからだ。

 3月16日の早朝、菅総理から直接私の携帯に電話があった。私の官邸での努力がどれほど奏功したのか定かではないが、事故対応の緊迫した状況下にも関わらず、とにかく総理にも情報公開の重要性に関心を持って頂けたようで、少し手ごたえを感じた。総理からのメッセージは、被曝線量の情報公開をしっかりやってくれ、そんな内容だった。その後、私は、本来は放射線量測定や情報公開の責任が文部科学省や東京電力にあることは承知をしながらも、一日も早く、少しでも多くの情報公開をしなければ、という思いに駆られ、経済産業省のホームページに、それまでバラバラに行なわれていた放射線量測定データの開示を初めて統合したリンクを張り、その後も情報量の拡充に努めた。
(紹介http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20110328/265044/?ST=business&P=5

 その頃、私が最初に「SPEEDI」という言葉を知ったのは、ソフィアバンクの藤沢副代表からのお電話だった。藤原氏とは昨年末のメキシコ・カンクンでのCOP17でお会いしたのが初めてであったが、その時に日本政府の一貫した交渉スタンスを高く評価し、それをネット上で広く発信をされていた。そんな氏から「SPEEDIというソフトが政府にはある。これを使えば放射線の広がり具合が予測できる。今開示しているシーベルトでは不十分だ。このSPEEDI情報こそを急いで世の中に開示すべきだ。情報公開を的確にやらねば後々大変なことになる。」こんな趣旨のことを電話で言われた。その後、私は同社の田坂広志代表(多摩大学教授)ともこのSPEEDIや危機管理、情報発信に関して緊密に連絡を取り合うことになった。(3月29日、彼は総理に対するアドバイスをする参与として官邸に迎えられることになった。)

 ここから、私のSPEEDIに関する政府内での情報収集が始まった。これはかなり難儀なプロセスだった。経済産業省の保安院、文部科学省、内閣府の原子力安全委員会、福島県の現地対策本部、財団法人原子力安全技術センターなどの色々な人の話を聴いた。次第に輪郭が見えてきたが、それぞれがSPEEDIとは部分的な係わり合いがあるようで、全体像をしっかりと説明できる人が見つからない。そして多くが、「情報が取れないから情報開示は出来ない」、「混乱するからすべきではない」、「開示は行なっても意味が無い」というような主張を繰り返した。私は「不完全でも、国民により早く、より多くの情報を政府が開示して、悪い結果になることはまずあり得ない」という信念だったが、悲しいかな専門性の高い分野において専門家を相手に論破することは困難であった。明らかになったことは、SPEEDIは、保安院が情報を提供し、原子力安全委員会がそれに基づいてパラメータを設定し、それを受けて原子力安全技術センターがSPEEDIを動かし、そしてその予測結果をまた原子力安全委員会が評価をする、という縦割りにまたがる業務のフローだった。

 その頃に、民主党の空本衆議院議員が原子力に詳しい、という情報を得た。私は兎に角、更なる知見を得たいという思いで空本氏に電話をし、その電話で「東京大学の小佐古先生」を紹介された。(後で知ったのだが、空本代議士は小佐古先生の教え子であるらしい。)すぐさま、私は小佐古先生ともお電話でお話し、その後、小佐古先生に海江田大臣とお会い頂いた。その過程で私が小佐古先生から知らされた、今でも忘れられない一言がある。「あの人たちはいつでもそう言ってSPEEDI情報の開示を拒み続ける。」だった。「あの人たち」とは政府内の原子力専門家のことと理解した。つまり、小佐古先生からすれば、これは長年の政府内専門家らとの戦いのひとコマだったのだ。

 そこで、皆さんには若干唐突で申し訳ないとは思いつつも、私は小佐古先生と保安院、原子力安全委員会、文部科学省などを私の政務官室にお呼びし、私の目の前でそれぞれの主張を行なってもらった。私のような素人ではなく、専門家同士に主張をぶつけ合ってもらいたかったからだ。そして、その中で、私も、「停電や津波で発生源データが取れなくとも、これまで公表してきたマイクロシーベルトの測定点データの集積から、発生源データを逆算することはできないのか。」とか「予測というSPEEDIの本来の機能は使えずとも、既に分かっているデータを元に、SPEEDIで面的に放射線の広がりを示すことに意味があるのではないか。」とかそんな素人質問をぶつけた。(結果的には、案外、的を射ていたと思う。)「情報が不正確で心配なら、米国でやっているように但し書きを加えればよいではないか。」こんな議論もなされたと思う。兎に角、小佐古先生にも思いのたけを述べて頂き、SPEEDI情報は開示の方向で検討を進めることになった。

 その後、小佐古先生は総理のアドバイザーとして3月16日に参与に任命され、官邸に招かれた。(私はその経緯は知らない。)空本衆議院議員も近くで執務されているとのことだった。いずれにせよ、これで小佐古先生がお力を発揮し、SPEEDI情報の開示は進むであろう、私はそう信じた。紆余曲折、その後は官邸中心の動きとなり、私はその頃までには政務官室での執務に戻っていた(被災地のガソリン不足等の対策や計画停電対応に追われた)ので、どういう登場人物がどう動いたのかは見えていない。それからかなり時間が掛かってしまったことは本当に残念でならないが、3月22日、福島みずほ社民党党首がこのSPEEDIを参議院予算委員会で取り上げ、翌23日、枝野官房長官が初めて記者会見でSPEEDI情報を公開した(同日、原子力安全委員会もホームページで情報を公開)。小佐古先生の長年の不満も、ようやくある程度は解消されたのではないか、と私は考えていた。

 小佐古先生の、突然の辞任に関わる文章を拝読する限り、官邸に入られてからの小佐古先生の苦闘が目に浮かぶ。だが、少なくとも私が原発事故の初期段階で関わったSPEEDIに関する情報公開は、小佐古先生との出会いと先生の発言が無ければ、もっともっと遅れたことであったと思う。小佐古先生のSPEEDI情報開示に関するご功績に心から感謝申し上げると同時に、小佐古先生の辞任を惜しむものである。