これから自己紹介としまして、私自身のことを何回か書いていこうと思います。

私は、千葉県船橋市生まれ。船橋育ち。
高根小、高根中、市立船橋高校、日本大学商学部と進みました。


◆劣等感の塊だった学生時代(小学校、中学校時代)
私は、大学に入学するまで劣等感の塊でした。

きっかけはこんな感じでした。
小学1年のあるとき(季節は忘れました)の放課後、私は友達を待っていました。

1年生のクラスは一階にあったので
下駄箱で靴を履き替え、外にでて、教室と花壇の間で友達を待ちました。

その頃、母親からこういわれていました。
「ポケットに手を入れて歩くなよ。」

しかし、私はやってしまいました。
そして、石につまずき転びました。

コンクリートの角に左の額をぶつけ流血。その後の記憶はありません。
家の近くの整形外科で左額を6針縫ってもらったそうです。

それ以来、左の視力が0.08に落ちました。

私は、父親が野球好きなため、少年野球に入れられました。

今にして思えば、左右の視力が違いすぎるので、距離感がつかめなかった。
野球では、簡単なフライも6年間取れず、三振ばかり。
面白いと思えず、イヤイヤやってました。
その頃、やってたキン肉マンのアニメが見たかったのを覚えています。

小学3年の時、ミニバスを始めました。
野球で中のよい先輩がやっていたからです。
3年生には練習がキツかったのかもしれません。ちょうどドラクエ3が出た頃でした。
部活をサボって、友達の家にゲームをしにいくようになりました。
まだ、家にファミコン無かったんです。

その頃の私には「努力」とか「やりたいからやる」というのはなかったように思います。

・まわりがやってるから
・やれといわれたから

やってました。それでも上達すれば楽しいと思えたのでしょうが、運動は向いてなかったんでしょうね。

バスケットボールでも、長身を生かしゴール前に走るもパスがキャッチできずチャンスを潰す。

運動をしても楽しくないから、次第に体を動かすことを避けるようになりました。
図書館で、マンガ日本の歴史をよんだり、ズッコケ三人組をよんだりするのが楽しいと思うようになりました。

勉強は、クラスで2.3番目程度にはできていましたし、体も大きい方でしたのでイジメにあうことはありませんでしたが、運動ができないことに強い劣等感を持っていました。

そんな気持ちだったからでしょうか?
小学校の記憶がほとんどありません。
名前をいってくれてもたぶん覚えてないでしょうね。



中学では、剣道部に所属。
小学生のとき好きだった子が剣道クラブにいて、中学の剣道部に入ったからでした。たしか。

まわりはほとんど、初心者ばかり。
違う小学校からの友達もできて、学校の外周を走ったり、楽しく部活をしていました。
しかし、6月に足首を剥離骨折。1か月半離脱しました。
今まであまり頑張ってないのに頑張ったからでしょうか?

復帰はしたものの、1ヶ月半のブラン
クは同じ初心者で始めた仲間と体力的にも技術的にも大きな差を生み、「努力」という言葉を知らない私はなんとなく「弱いやつ」という立場を受け入れていました。
          
この頃の私は、なぜだか「痛いのやだな」と暴力を極端に避けるようになってました。ケンカにならないような振る舞いをしてたように思います。

なんでだか、きっかけはよく思い出せないですね。たぶん、ケンカしてた負けたのかもしれません。

三國志や信長の野望など歴史のゲームに熱中するようになりました。
ロードス島戦記といったファンタジー小説を読むようになりました。

グループわけでいえば、オタクグループでしたね。
女の子と話した記憶はほとんどありません。
中学時代の同級生の女の子もほとんど記憶にありません。
今になってビックリです。


高校は、スポーツで有名な市立船橋高校に進学。仲の良い中学の剣道部の仲間(強い)が剣道部に入るというので、一緒に入部。

中学時代に実績のある同級生達と一緒に練習しました。
中学生時代にヌルイ練習しかしてこなかった私には、強くなるための練習に耐えられませんでした。
私は夏休み後に部活を辞めました。

それからの高校生活は、
「仲間を裏切った」という気持ちで仲間に声をかけることもできず、同じ中学の仲間も退部したことにも、責任を感じていました。
 

こんな自分が本当に嫌いでした。
友達も教室で話すくらいはしますが、一緒に遊びに行ける友人はできず、ラジオを聴く日々を過ごしました。
BayFMで、山寺宏一さんや、松尾潔さんのラジオを聴くのが楽しみでした。

学校に行くのは嫌ではなかったと思います。楽しかったとも思います。

私は「自分のことが好きになれない」
小、中、高校時代を過ごしました。

自己紹介②大学~整骨院時代に続く