一橋大学日本史2023年第1問

 

 

 現役一橋生の塾講師が、一橋大学の日本史の解説をしたいと思います。一橋の日本史は、難しい割に解説書が少ないことで有名(日本史は、他の教科に比べて一般的にそういう傾向にありますが...)なので、私がこの「日本史論述解説市場」を独占してしまおう、という訳です。
 なお、解答の作成はせず、解答に至るまでのプロセスや周辺知識に触れるにとどまりたいと思います。
 

【問題・解答例】

省略します。

 

【解説】

  1.  これは解答不可能でしょう。絞れるポイントがあまりにも少なすぎます。『経済話』という書名から、「江戸時代に経済について語った人なんだな~」ということくらいしか分かりません。
     ここで、「経済」とは、「経世済民」の略ですよね。従って、「経世論」を説いた人物の中から導き出せばいいのでは?と思えるといいと思います。

     経世家としては誰が思いつきますか?
    ①元禄期:太宰春台・荻生徂徠
    ②化政期:海保青陵・本多利明・佐藤信淵
     くらいでしょうか。そもそも、江戸時代は経済は発展した時代でしたが、「経済学」の発展は、対外的にかなり遅れを取っていました。
     それが原因となって、幕府財政は年を追うごとに厳しくなっていきますよね。具体的には、「米価安諸色高」という言葉も生まれるほどです。これについてはまた触れたいと思います。

     ともかく、経世家の中から当てずっぽうで回答を書いてしまえばいいわけです。とはいっても、一応まだ絞る余地はあります。

     この著作は、史料から読み取れますが『経済話』という名前でありながら「朱子学」について言及していますよね。従って、幕藩体制などに対して言及している学者の著書である可能性が高いです。

     ただし、経世論とはそもそも幕政に対する、ある種「批判」的な論理であったため、これに言及するのは当たり前と考えられます。あるいは、問5の問題文から、藩政改革に関して述べた学者の可能性が非常に高いです。

    ①太宰春台:幕藩体制に対する改善策を示す。(『経済録』)
    ②荻生徂徠:幕政改革論を示す。藩専売制を説く。(『政談』)
    ③海保青陵:藩専売制を説く。(『稽古談』)
    ④本多利明:重商主義的国営貿易を説く。(『西域物語』『経世秘策』)
    ⑤佐藤信淵:貿易振興・農政改革を説く。(『農政本論』)

     ここから、藩専売制について言及している荻生徂徠・海保青陵のいずれかが解答になることが予測されます。ここで、問5の言う藩専売制とは、化政期の話ですよね。
     太宰春台は化政期にはすでに亡くなっていて、同時代人の可能性は非常に高いです。また、海保青陵は「流通経済の仕組み」を解説しています。

     ここでさらに、問5に見える長州藩の藩政改革の具体的内容を考えてみましょう。長州藩は、越荷方を設置して、貿易を仲介することで利益を得ており、まさに流通経済の応用をした政策と言えます。これが、海保青陵の思想と一致してるとみることができれば、解答は海保青陵となるでしょう。

     しかし、この問題にここまで考えるのは非現実的であり、ここまでの知識が一般的な一橋受験生に備わっていることは非常に考えずらいです。本番の最初の問題で、しかも空欄補充のこの問題にそこまで時間をかけるほど強心臓な受験生はきっといないでしょう。よって、ここの空欄は無回答でも問題ないかと思われます。
     あるいは、適当な経世家(化政期に活躍した人間を書くことが望ましいが)を書いておけば、おそらく教授からの印象は高いのではないかな、と思います。結局、採点者の気分ゲーのところがあるので、一応にももがいてみることは悪くはないのかな、と思います。

     
  2. 荻生徂徠の思想は置いておき、まずは経世論について考えましょう。
     経世論は、もちろん社会をよりよくしよう、という思想でした。すなわち、「現状の幕政を、あるいは藩政を学問の力を用いてより良いものにしていこう」という発想でした。よって、経世論と幕藩政治は密接不可分にかかわっているということができます。

     一方で、朱子学は幕府に官学として受容されました。(官学、そして正学になった流れは把握できてますか?)すなわち、幕藩政治と朱子学は密接に関わっていたのです。
     よって、幕府を媒介して、という形ではありますが、朱子学と経世論は対立して存在していた、ということができます。そこで活躍したのが荻生徂徠でした。

     荻生徂徠は、朱子学を用いていた幕府の統治策に対して具体的な方策を示したのです。実益を重視する経世論(「実益を重視する」というのは、例えば重商主義を取っていたことなどからも容易に想像できるはずである。)は、伝統的な文武忠孝を要とする朱子学とは相容れない関係にあったはずです。

     その転換点にあり、政治に参画したのが荻生徂徠だったので(徳川吉宗は、実際に荻生徂徠や室鳩巣などの儒学者を積極的に登用し、4代家綱の時代などとは打って変わって改革を積極的に推進した)、その「ターニングポイントになった荻生徂徠について、正しく記述できますか」ということを聞くのがこの問題の趣旨と思います。

     私はこの問題を本番に解きましたが、正直なんて書いたか覚えてないです。でも、対立軸にあることを書いていれば十分合格点と思います。

     
  3. 何度も出ているので省略をします。

     
  4. ここで、紛らわしい用語の分別をしておきたいと思います。
    ①蔵元:蔵物(蔵屋敷に集められた年貢米・国産物など。)の出納・売却人
    ②掛屋:蔵物売却代金を保管し、藩に送付する役割
    ③札差:蔵米の受取・売却人

    ここで、江戸時代の経済について簡単に解説したいと思います。
     江戸時代は、幕府は年貢米を収入源にしていました。年貢米は、全国の藩から「廻米」として江戸や大坂の蔵屋敷まで運ばれました。もちろん船です。米は重いので。このタイミングで船を用いるので、日本は「鎖国体制を敷いていたにもかかわらず」海運業界を活気付けることができたのです。

     活躍する人物や時代、何を開削したか、その航路は何と呼ばれたか、始点と終点はどこだったのか、どういう船が活躍したのか、それぞれどういう役割を持った船だったのか、などはよく復習しておくと良いと思います。

     一方で、幕府は支出として、商品作物を大量に購入しました。どこから購入したのでしょうか。それは、江戸の城下町の発展した町人地でした。
     
     元来、城下町に町人地なんてものは存在しませんでした。もっとも、城下町は大名に従う武士らが応戦できるように武家のために、あるいは儒教の時代だったので寺社のために作られたものでした。すると、城下町の人口は増加しますよね。そこで、武家や寺社の商品作物をはじめとした商品、鋳物師の作る鍛冶商品の需要が爆増しました。

     利益に貪欲な町人がこのチャンスを逃すはずがありません。大量の町人が城下町めがけて家を構え、そこに住む武家をはじめとした上流階級の人々に売りつけました。これによって町人地が形成されます。そして、その町人地はかなり狭かったのです。わずかに残った城下町の周りの空き地等々に町人が商店を構えたのですから当たり前ですね。零細な棟割長屋などが発達します。

     また、当時の家屋は木造が主であったため、(秋田杉や木曽檜が有名ですね。杣や山子などの関係も確認しておこう。)火事が頻発しました。そして、こんなに建物が詰め詰めだと火事を止めることは格段に難しくなります。その点、大火が何度も発生し、防火政策などもこの時期に発展しました。

     なお、広小路などを設けたところで、町人が利益めがけて商店を設置するだけなので、あまり効果はありませんでした。「広小路商店街」が今存在するのはその名残、と考えていいでしょう。

     話はそれましたが、要は幕府は町人の売る商品作物にたくさん支出していました。そしてその需要は極めて大きかったため、商品作物の価格は上昇していきます。

     一方で、幕府の収入は米だといいましたね。米の数は市場において増加していくので、米価は供給過多により低下していきます。これが「米価安諸色高」の正体だったのです。幕府はこれを恐れました。支出ばかり増えて収入ばかり減っていくのは流石にやってられないからですよね。

     そこで幕府は様々な改革を展開しました。しかし、そこには矛盾もいくつか見られます。

     例えば新田開発。新田開発を奨励し、米の生産量を増やすことで幕府の収入増加を目指しました。しかし、米が増えれば増えるほど供給過多になり、年貢による収入は減少していきます。従って、これは矛盾です。

     また、株仲間を認め、あるいは結成を奨励したことも、現在の市場原理からしたら明らかに矛盾です。
     なぜこのような事態に陥るのでしょうか。

     それは、このころは経済学が発展していなかったからだ、と結論付けることができます。要は、経済が発展していないから、どういう政策を取ればいいのかが理解できなかったのです。

     18世紀ごろにはアダム=スミスが経済学を本格化させますが、このころ日本は鎖国状態です。彼の理論等先進的な考え方が流入するのは、明治に入ってからだったのです。これが、幕政の矛盾を生み出しているのです。

     もちろん、堂島米市場の承認による米価の平準化と、それに伴う淀屋辰五郎の財産処分など、当時としてうまく機能した政策もあります。が、それも今から考えれば、中学生でもその不自然さを指摘できるほど政策ばかりだったのです。
     
     ほかにも、商品作物の値段を下げるために行った政策があります。それが、商品作物の生産奨励です。幕府は元来、田畑永代売買禁止令を出したり、(存在は疑問視されているが)田畠勝手作りの禁を出したり、商品作物を作ったり土地を売買したりすることによる貧富の差の拡大を恐れていました。

     しかし、幕府はこれを黙認するようになりました。一般庶民の間でも、金肥が流行って商品作物の生産が加速したり、あるいは農書・農具が完成されたりと商品作物の生産が発達する理由はたくさんありました。これを幕府が規制しなかったのには、幕府にとって重要な意味を持っていたのだ、ということができます。

     このような流れの中で、売却・換金は極めて大きな意味を持ちました。というのも、商品作物の生産が奨励され、百姓にも貨幣経済が一層浸透し、その価値が急上昇したのですから、当たり前です。今の政府が貨幣を最重要視しているものと同じ理由です。従って、札差・掛屋などは、教科書に隠れている割には、私たちが思っている以上に大きく、重要な役割を果たしていたのです。この機会に、彼らの働きを今一度復習してみるといいと思います。

     
  5. 村田清風による藩政改革について言及するだけの問題です。教科書を見れば十分なので、解説は省略します。

     
 これで、第1問の解説は以上となります。私の気が続く限り続けようと思います。なんせ、過去問の解説がかなり少ないものですから。お疲れさまでした。