こんにちは。久しぶりです。

確か、7回目のブログでしたね。


前回のブログで突然人目に触れる数が増えたようで、何か驚きです。相変わらずなことばかり書いておりますが、あまり恥ずかしい感じはしません。書くことで捨てているようなものなので、書いたあとは別の人間についてなっている、みたいな。あるいは、年を取って自分と人の間の境界線を上手く利用できるようになったのかもしれません。


それはともかく、今夜は雨が降っています。だからタイトルを雨にしたのです。適当です。

日中は、家に籠もって気の長い作業をしておりました。明日もする予定です。体の力がほとんど要らない単純作業が好きなので癒されました。

それをしながらオリンピックの神業を見たり解説をなんとなく聞いていました。始まる前は何とも関心が薄かったのですか、いざ人々の尽力を見ると、称賛の念を持たざるを得ませんでした。彼らの人生と見る我々にとって開催できて良かったという感想を持ちました。

まぁ、競技終了後画面が切り換わってアナウンサーやゲストが言う、観衆を代表するようなコメントは聞きづらくてそこでTVの電源切るか音量2くらいに下げるんですが…。ハキハキ嬉しそうに「普通(?)」の感じ方を(自意識過剰な私に向かって)押しつける的な発話場面を見るのは相変わらず苦手です。


私がどう思おうが、彼らもまた自分たちのなすべき仕事をちゃんとしているだけであり、ほぼニートの私がどんな感想を持っても我々の間には何の関係もないんですけどね。視聴者としての私のエゴは、かなり利己的な初期設定のまま世界を見ているということですね。


気づけば雨が止んでいます。

こんな感じで気づけば色々終わっていくのでしょうね。食事の時間も、1日も、夏休みも、パンデミックも、人の一生も。

変わるから、ずっと愛おしいのだけど。軽さへの安心とか、一回きりの重さとか。その両方を感じている精神状態が、私にとって重要な気がする。


私は私なりに、家に閉じこもって空を見て、何かを生み出す行為をすることで生きていける。何かを愛しく思う気持ちも凶行に至る状況も自分の経験からだけではあるけれど、普通に理解できる。

ただ人の感じ方と意見は、ただただ別物で、「ああ分かります」なんて嘘も言えない。それどうなの?、まぁ別人だから仕方ないよな、と思って話題を変えるだけ。

人の意見も、自分の感情も、程々に雨が降ってそのうち止むこと・その他多くの現象に支えられて発生した派生物なわけですから、たまには利己的眼鏡を外して一物体あることを自覚するのも悪くない気分転換です。慣習(周りの人とか仕事)のおかげでまた人間中心的・利己的自己に戻れるはず。無我とか虚無を維持したまま、感情が不動になると、生きる気も意味も無くなるから、気分転換くらいが程々かな。

でも生きていく限り、意識は不動のままではいられないみたいで、代謝の停滞と栄養欠乏のツケがある時苦痛の引き金を引く。時に狂気にまで振れうる。虚無の反動の無限大みたいな痛み、怒り、嘲笑。
そうなっても、助けられることがある。また幸せと感じる時が来る。

どんな暴力性も、あと変態みたいなところも、私が生きてる限り私を突き動かすだろうし、妄想を繰り出すだろうし、内観の動機にもなってちょっとした知恵がやってくるかもしれない。

私が分かるのはこれくらいです。もし同じような性格傾向や感性の人が生活上何か苦にすることがあるとすれば、その感覚はなんとなく掴めるかもしれないということでした。

自分自身を省みるに、関心があることもないこともパッと決めつけて言い広めることはかなりしたくないことなのですが、人間界で意見が溢れかえってはさらに求められているのは一体何なんでしょうね。何を見たくて、それで生がどうこう…いや、もう何も言わなくていいか。私は政治家にはなれそうもない。その他色々にもきっとならないでしょう。
それでも私はできる限りで、できることをして生きていきます、そうできたらいいと思います。


まとまりがない文章ですみません。ではまた今度。
お読みいただいた方、ありがとうございました。
良い一日を。