【スピリチュアルな痛み】


人間が苦痛を体験するとき 
痛みなどの身体的な感覚だけでなく、

さまざまな感情や他者や社会との関係、
日々の生活への影響や過去から未来へ続く
時間の流れを含んだ心理・社会的、
スピリチュアルな側面が統合された
全人的な体験として迫ってくるとのこと。

全人的苦痛(トータル・ペイン)は
身体的な痛み
精神的な痛み
社会的な痛み
スピリチュアルな痛み

この4つの痛みが
相互に影響し合っていて
複雑に絡み合った形で現れてゆき
そしてそれを表現できるのは、
体験しているその人だけのもの。

自分や大切な人の死との対峙を
余儀なくされたとき
自責の念あるいは罪の意識をもち
自分自身の存在に価値がなくなったと感じ
深い苦悶のなかに陥いる。

人間が
「体(Body)」
「心(Mind)」
「魂(Spirit)」
この3つからなるという認識のもと
それぞれの要素において
適切なケアを与えることを目的とした
スピリチュアルケアは
ますますこれから重要視される。

治療を行う病院でも、教育を行う学校でも
人を育む家庭であっても、職場であっても

人が自身の苦しみや
人生に対する意味を見出すのを手助けしたり、
必要な慰めや癒しを提供したりするケアや
それを行う人が存在しないのが現況。

一般的に心の専門家であるとされる
心理カウンセラーや精神科医、コーチらがいても

その多くが往々にして脳やその働きに着目し、
モノの捉え方や考え方を意識的に変えていく
治療法や問題解決法に終始してしまっている。

それは、問題があるという前提条件のもと、
彼らを薬などの対症療法や行動療法で
変えていくことにより、
どれだけ症状が良くなったかを測定
または重要視したり
その結果のみを評価する。

「魂」のケア、
いわばスピリチュアルケアの役割や
その重要性が長年軽視されてきているのだ。

魂に焦点をあてたスピリチュアルケアは
まず人格や存在を尊重し、受け入れ、
何を求めているかを傾聴し、寄り添いや
適切なケアを行う必要がある。

そのケアによって、自分自身で
自身の今体験してることの意味や
生きる意味を見出したり
本当に必要としている
慰めや癒しを得られたり
生きる勇気や希望を
見出したりすることができる。

スピリチュアルケアの役割とその重要性が
人間の苦しみの本質を明らかにし
心の痛みを和らげることになるのだ、、。

わたしは最愛の息子を亡くしたことで
自分がされた数々の虐待の痛みを思いだし
自分も死を決め行動したが失敗に終わった
自分の過去を思い出したり

トラウマというより
答えがない答え 
折り合いのつかない自分に
折り合いをつけて
「意味」を見いだせない苦悩を抱えた
「スピリチュアルな痛み」は
中々消えない。

いや解消する必要はないのだ。

容易に解決できない個別の人生に関わる
苦悩という辛さや痛みの
「スピリチュアルな痛み」を抱えている時

スピリチュアルカウセリングを行う人に
何らかのメッセージを伝えられたり
不可思議なことを言われても、
不愉快だった。

また通常のカウンセリングで
ただ傾聴されても励まされても、

コーチングや質問で
目標設定やゴール設定など含め
とてもじゃないけど
未来なんて見えやしなかった。

そんなのはどうでもよかった。

緩和するにはどうすればよいか
問題解決志向の視点で関わられても
それはかえって逆効果であること
知って欲しい。

私もこれまで
クライシスセッションや
グリーフセッションをしてきたし

パワーコーチングや
マインドマネジメントコンサルや
メンタルケアをさせていただいていたけど

今の私は、もうこれまでのことは
やれないし、できないし、戻れない。

今の私が出来ることは、、、
いいえこれまでも私がして来たことは、、

体験したからこそできる
スピリチュアルケアリングだった。

いのちとの胎話は
そこで活かされてきたんだ。

いまの私ができること
話しを聴き、祈る。

息子が生死を持って手渡し
全てを体験させてくれた。

良い悪いではなく正解のない
永遠のテーマを掲げてくれたことで
眞の教育いや魂の再響育を受けたのだ。

とてもありがたいギフトだった。

これまでも私のテーマだった。

「どう生きてどう死ぬか」
「どう生きるのか」

そう、
生まれるということ。
生きるということ。
死ぬということ。

この生死から見えるもの。

ここからのスピリチュアルペインの
スピリチュアルケアリング。
そこに尽きる。

“魂の痛みには魂の配慮を”

これまでの人生を振り返るも
“魂の癒し人”、“奇蹟の人”と呼んでいただき
親しんでいただいてきた。

25,000人以上のセッションを
させてもらえたのも意味があり
ただただ感謝なのだと
改めて思いました。

痛み,不安,恐怖,悲嘆……,
人の生死から抱える
さまざまな苦悩に対して
スピリチュアルケアリング。

資格保有してるからとか
宗教者だからとか関係ない。

いや私にはそのどちらもない。
あるのは人生での体験だけ。

しかし、スピリチュアルケアリングは
誰でも理解し話しを聞けるのかと言ったら
いやいやそれは難しい。

自死遺族となって落ち込む私を
氣にかけて優しくしてくださったので
思わず氣持ちを話し始めたら

「そんな話しは聴きたくないし、
 人に話すもんじゃない。
 やめてくれない?」

相手はそんなつもりは無いのだけど
私だけでなく息子も否定されたみたいで
胸が痛かった。

周りの人も、あまりにもショックで
どう接したらいいかわからず
声をかけてくれることもなく
見守ってくれてたのだけど

それは無視されたり拒否されたり
価値がないのかと余計に落ち込んだり

逆に、励まそうとして
いろんなことを言われたり、
前を向いてとか言われたりする言葉に
よけい苦しくなったり、

ほんとに一筋縄ではいかない状況でした。

自分なりに死生観があったのに
そういうものも、スピリチュアルなものも
神仏も全部否定した。

自分の子育ての罪悪感や自分を疑い
怒りをとじごめあらゆる全て信念の喪失。
自分への信頼を失いました。
ビリーフの喪失というやつです。

スピリチュアルな苦痛
いわゆるスピリチュアルペインを
感じている状態の人に

ただひとつの援助方法というものでは
対処なんて出来やしない。

普通のカウンセリングの傾聴でも
どうもならない。

スピリチュアルペインを抱えた人の癒しには
人間対人間の普通な人間的な交わり、
心の交わり、ぬくもりや、触れ合い
生活や地域社会の交わりが必要だし

あるいは時には、やはり
信仰心も必要かもしれない。

私はビリーフの喪失となり
信仰心すら吐き気がしたけれど

結果的にはサムシンググレートや
霊魂や死後の世界に思いを馳せ
祈ることで冷静になることができた。
 

突然、
命を脅かす病の宣告や
余命宣告を受けたり、
末期患者、緩和ケアに入る状態の人も、
その家族やパートナー達や

事故や災害、事件など体験した
ご本人やご家族達や

自死遺族の皆様たち

因果関係がはっきりと判らず
その説明がされないことも多くある。

「わたしだけがなぜこんなに
 苦しまなければならないのか」
といった問いも生じる。

人の人生にはそれぞれに苦難辛苦があり
生きていることを悩んだり
死期が近いことを知ったり
大切な人の死に出会うと

自分の存在に関する問いや苦痛が
当然現れてくる。

「私の人生はいったい何なのだろうか?」
といった問い、

生きる意味に関する苦痛が生じる。

「自分は何のために生きているのか」
「死んだあとはどうなるのか」
といったスピリチュアルな問いなど

人は、誰でも、元気なときでも、
何かしら「スピリチュアルケア」を
必要としているという。

ましてや、病気になったとき、
どうにもならない困難と対峙したとき、
死に直面しているときなどは、
なおさら、スピリチュアル・ケアが大事だ。

ゆりかごから墓場まで。
誕生と死。

この両極で見えてきたもの大事にしたい。

祈り
メディテーション
祝福
ぼぉっとする時間や環境
自分の思索
ふれあいの交流
大切にしてゆきたいですね。

【参考に】
⭐︎ウィキペディアでは
“スピリチュアルケアとは”、
「生きがいを持ちやすい人生観」への
転換を推奨し、人生のあらゆる事象に
価値を見出すよう導くことにより、
人間のスピリチュアルな要素
(心あるいは魂)の健全性を
守ることであるとされている。

⭐︎スピリチュアルケアを紹介した
ウァルデマール・キッペスは、

「スピリチュアルケアとは
 現代人のスピリチュアルな生活の
 バイタリティーおよびその深さを
 育成する援助であり、他者や神や
 自分自身の内面的なニーズに応対する、
 人間としての成長を示し、
 育成するものである」と述べている。

⭐︎WHOでは
「スピリチュアル」とは、
人間として生きることに
関連した経験的一側面であり、
身体感覚的な現象を超越して得た
体験を表す言葉である。

多くの人々にとって、
「生きていること」が持つ
スピリチュアルな側面には
宗教的な因子が含まれているが、

「スピリチュアル」は
「宗教的」とは同じ意味ではない。

スピリチュアルな因子は、
身体的、心理的、社会的因子を包含した、
人間の「生」の全体像を構成する
一因子とみることができ、

生きている意味や目的についての関心や
懸念と関わっている場合が多い。

(WHO「ガンの緩和ケアに関する専門委員会報告」1983年)

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