意識(ここでいう意識とは、自意識のこと)が何故人類に誕生したのか?

二分心の時代の人類には、神の声に従ってただ農耕したり狩猟したりだけの状態であったろう。
しかし、それだけでは、やがて、領土争いで他部族との縄張り争いが起きた時に、神の声に盲従しただけでは負けてしまう事態も出てくるわけで、敗走して生き残った人の中に神の声に対する矛盾というか疑問というか、とにかく、仲間を無惨に殺され惜敗した強い記憶が残り、その情動を含めて歴史書を書くようになった人の中に、右手を支配する左前頭葉と書字のブローカ野や左角回との連絡する神経ネットワークの中に、神の声よりも自分の情動・感情・精神性を意識する働きが創発されてきたのではないだろうか?自分というものを自分自身できちんと管理して行動していく能動性が生まれてくるのではないだろうか?つまり、自分自身を意識する自意識が生まれてくるのではないだろうか?

さらに、自分を意識することができるようになると、他部族の考えをも推測するように発展していくようになったのではないだろうか?

そして、相手の裏をかくような戦術を考えられる者が勝者として繁栄していったのではないだろうか?


ここで、今の人類を考えてみたい。

世の中には、詐欺や騙しが多い。これらは、相手の人間を自分が幸せになるために利用しようとする本能のままに行動することではないだろうか?

今一番、僕が関心があるのは、愛がわからない(あるいは本人はわかっているつもりでも本当にはわかっていない、または、実践できていない)人たちのことだ。

世の中には、愛がわからない人が意外と多いと思われる。

愛とは、やはり『慈しむ』気持ちであろう。気持ちではなく、思考と言ってもいい。

他者の幸不幸を自分のことのように推測する力といってもいい。

次のように考えている人は多い、「そんなことはわかっている、だけど、そんなこと実践していては自分が代わりに損してしまうことが多いから実践できないんだ、人生は一回きり。自分が楽しければそれでいいのだ」と。

それは、本当の意味で相手の幸不幸を自分のことのように推測できていることにはならない。

例えば、目の前に困っている人がいるとしよう。その人を見て、自分がその人の立場だったらとまず考える。その時に、その困っていることが単にその人の自業自得ならば別に放っておけばいいであろう(おせっかいを焼く人は放っておかずに甘やかしてしまうであろう。それは、その人のためにならないにもかかわらず)。しかし、自業自得ではない本当の不運で困っているようならば、助けてあげるのが本当の愛だ。目の前で困っていて、その人が自分のいるのを視界に入れているのなら、助けてあげるべきだ。


こんな能力は、適者生存の進化の上で、何のメリットもないように一見思われる。
実際問題、誰かを助けても、それで自分が報われることは少ないからだ。しかし、それは、相手も同じような能力を持っていないからだと思われる。

愛の能力が同じようにあるもの同士で助け合えば、単細胞生物が多細胞生物になったように、人がより大きな社会を築き上げていってるように、同じ者同士の絆・ネットワークが大きくなっていくはずだ・・・(何千年後になるかわからないが)


だいぶ、話が思想的な内容になってしまった・・・
こんなことを言いたいわけではなく、


とにかく、自意識から発展する脳の能力の目指す次の理想形は、愛なのか?相手の気持ちを読む力か?一体どういうものだろう・・・自己欲求を満たす本能だけの人生から、ステップアップしたい・・・